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『ダイバーシティ』で伝えたかったのは思想:社会構造を変える科学と概念を求めて」(前半)


『ダイバーシティ』で伝えたかったのは思想
:社会構造を変える科学と概念を求めて」(前半)

 
語り手:山口一男 VCASIフェロー・シカゴ大学教授(社会学)
聞き手:成田悠輔(VCASI研究助手)

――まず、先生の研究について伺いたいと思います。先生はシカゴ大学社会学部の教授であると同時に、経済産業研究所(以下RIETI)の客員研究員としても研究をされていますね。それぞれの場所では、だいぶ違ったお仕事をされているんでしょうか?

山口 違うというよりは、RIETIでの研究がシカゴ大でのそれの応用になっています。私の本来の専門の一つは統計モデルの開発です。縦断的調査のデータを分析する手法で、主に従属変数がカテゴリー変数であるモデルを用いるのがその特徴です。その応用として、最初は社会階層化や社会的不平等の問題を扱っていたんですが、近年はほとんど就業と家族の問題が中心です。特にワーク・ライフ・バランス(以下WLB)という概念がキーですが、そのテーマで一連の研究論文を書く意思を固めたのは、VCASI主宰の青木昌彦先生がRIETIに招いてくださったのがきっかけなんです。それ以前は就業と家族といっても、結婚、離職、出生などの分析もやっていて、コアのテーマを一つやるというより、ライフコースの選択と社会化に関連するテーマを幅広く扱っていました。 
 もう一つの専門は、合理的選択理論です。理論的には経済学と非常に近い発想で、ミクロの個人行為に立脚してマクロの社会現象を説明できる範囲で説明しようという考え方です。説明できる範囲で、という点が重要なんですが。逆に経済学と違うのは社会ネットワークのような構造や制度の要因を重視する点です。

――やや異質な複数の理論をご専門にされているわけですが、どのような基準で分析手法を選ばれるのでしょうか?

山口 どちらがより具体的な仮説を導きだしやすいかというのが一つの節目ですね。つまり、理論は最終的には検証してこその理論ですから。一部の経済学の人たちは完全に理論だけを作りますが、私はできれば計量分析で確かめられるところは確かめていくという主義なのです。具体的に検証可能な仮説が出るか出ないかというのが非常に大きい。
 ですから、扱っている内容がインタラクティブなものであれば、ゲーム理論も使います。たとえば親子関係についての論文を書いたときにはゲーム理論を用いました。一方、社会の集合的振舞いを分析するときには、ゲーム理論ではないですね。マクロな人々の平均的な行動に影響はされても、いまインタラクトしている相手の行動を考える必要がない場合ですから。
 したがって、現在扱っている研究は大きくいって三つ---統計モデル、その応用、合理的選択理論---です。それに加えて、2002年から新たな応用としてWLBの研究をはじめました。

[ワークライフバランス研究の変遷]

山口 WLBは当初ヨーロッパで少子化問題との関連で議論されはじめ、日本でも話題に上るようになりました。少子化問題との関連というのは、家庭と仕事が両立できない状況では仕事か家庭を犠牲にするという選択をしやすく、後者の場合、結婚を遅らせたり子どもを少なくしたりすることになりやすいということです。

 ところが、OECDのデータを見てみると、少子化と女性の労働参加率の相関が90年前後を境に負のそれ---女性の就業率が高い国は出生率が低い---から正の相関---女性の労働参加率が高いと出生率も高い---に変わっているのです。そのデータをヒントに、フレックスタイムや短時間勤務、在宅勤務などの柔軟な労働環境の普及が少子化に歯止めをかけるという主張を日本経済新聞の「経済教室」に書かせてもらいました。この記事はインパクトがあったようで、それをきっかけにして内閣府の男女共同参画全国会議の基調講演を頼まれることになりました。
 その後、家計経済研究所のデータを使ってWLBと夫婦関係満足度の関係についても調査しました。その結果、夫婦の共同の活動が多い、対話が多いといった条件が夫婦関係満足度に非常に影響すること、そして夫婦関係満足度の高さが出生意欲と密接な関係があることがわかった。たとえば、「次の子どもが絶対ほしい」、「条件次第でほしい」、「ほしくない」と答えた人たちのその後を追っていくと、「次の子どもが絶対ほしい」と答えた人の68パーセントは実際子どもを持ち、「条件次第でほしい」では42パーセント、「ほしくない」は8パーセント。つまり、WLB、夫婦関係満足度、出産意欲・行動はお互いに非常に強く結びついていているということです。
 少子化緩和と並ぶWLB研究のもう一つの柱は既婚、未婚を問わない女性の人材活用です。日本の男女賃金格差は非常に大きい。男女賃金格差についてはエドムンド・フェルプスの統計的差別の理論がありますが、その理論の条件が実際日本で満たされているかを調べました。その結果、間接的な実証ではありますが、全て満たされていないという結論になった。それを踏まえて、日本の男女賃金格差の非合理性を訴えたのです。これも反響を呼んで、あちこちから話をしてほしいと依頼が来ました。官庁や企業の人々が私の理論に納得して、女性差別が非合理だということを認識してくれるかがこれからの問題です。
 ファミリー・フレンドリーな職場環境みたいな考えから、最初は既婚女性が対象だったんですが、次第に独身男性にも広がってきた。つまり有配偶女性だけのWLBを達成しても、家族としてのWLBは達成できない。社会的には、WLBはすべての人に必要だという意識で個人も含めたWLBという言葉に変わってきました。
 そして、最近はオーバーエンプロイメントについての分析に取り組んでいます。ここでいうオーバーエンプロイメントは過剰雇用ではなく過剰就業のことです。つまり、自分の希望よりも長く就業している人、即ち就業時間を少なくしたいと思っている人たちのことですね。言うまでもなく、オーバーエンプロイメントの問題は、WLBの非常に大きなネックになります。
 日本にはオーバーエンプロイメントの人々が非常に多い。特に問題なのは、希望する就業時間と実際のそれの一致度の問題です。たとえばアメリカも就業時間が非常に長いのですが、過剰就業と分類される人は7パーセント程度です。一方、若干定義の違いはあるものの、日本は50パーセント程度と非常に高い。つまり、アメリカの場合、就業時間が長い人はそれを希望して就業している。希望と実際の一致度が高いわけです。しかし、日本の場合、特に男性正規社員の場合は希望がほとんど考慮されずに就業時間が決まっています。私はそれを「見返り的滅私奉公」と呼んでいます。つまり、男性正規社員は賃金もその上昇率も高く、雇用保障もあって見返りがある。しかし女性の一般職の場合はどうか。雇用保障はあっても賃金もその上昇率も非常に低い。そして、特に就業時間をコントロールした場合、女性の方が過剰就業率が高くなる。就業時間が男女間で同じであれば、希望就業時間が女性の方が短いのですからね。
 こういった様々な観点からWLBを考えて日本の現状とEUやアメリカのそれとを比較する場合、アメリカは法的介入が少なく日本と比較しやすいと言えます。一方、EUでは法的整備が非常に進んでいて、就業時間などについて政府が積極的に制度設計をしています。日本は、ヨーロッパ型のとるのかアメリカ型をとるのか、進むべき道について政策議論をしているということです。

――たとえば日本ではWLBはここ数年で急激に研究の中で取り上げられるようになった印象があります。先生がWLBについて本格的に研究しようと思われた時点でWLBはアメリカの社会学者の間では既によく知られた概念だったのでしょうか?

山口 私は、スローン・センター・オン・パレンツ・チルドレン・アンド・ワークというスローン財団が寄付したシカゴ大学研究センターにある仕事と家族と子どもに関する研究チームに90年代半ばから所属していました。そのセンターでWLBが非常に注目されはじめたのが2000年前後でした。ですから、それ以前から概念自体はありましたが、大きな研究課題だと認識されはじめたのは90年代後半だと思います。ただ、日本では一般には全然浸透していなかったですね。
 当時、僕自身は、WLBがないことが少子化の一つの原因であるということが実証データからわかれば、日本でも保守層まで含めた政治家や官僚が動くのではないかという認識がありました。あとであらためて話すことになると思いますが、私の恩師のジェームス・コールマンは教育政策を中心に公共政策についても非常に活発に発言した人でした。その影響もあって、政策を非常に重視しているRIETIに呼んでもらえることになったとき、政策的にインパクトのあるテーマを選びたいと考え、分析対象としてWLBに焦点を合わせたというわけです。
 分析手法の面でもその時期に研究をはじめられたのは幸運でした。実のところ、日本では90年代半ばにおいてすら、私が「イベントヒストリー分析、パネルデータ分析の専門家です」と言っても「それは何ですか?」という状態でした。しかし、2000年代に入って以降、家計経済研究所と慶応大学の樋口美雄先生の非常に活発な活動の結果、日本でもパネルデータ分析の重要性、特に因果関係を分析する際の重要性についての認識が広がりつつありました。言うまでもなく政策は人々の行動の変化を生むためのものであって、政策の分析にはその変化の因果メカニズムの分析が不可欠ですからね。そういった新しい動きも私のWLB研究を後押ししてくれました。
 ですから、分析対象の面でも分析手法の面でも方法論の意味でもラッキーだったと思います。単に個人や家族のレベルではなく、地域の支援やコミュニティの形成も非常に重要だと思っているので、今後はそういった問題の分析に取り組みたいと考えています。

――たとえば企業経営者や組合などの利害関係者へのWLBの重要性の認識の浸透の一番大きな障壁は何でしょうか?

山口 コストの可視化が難しいことですね。たとえば女性差別の一番の問題はその機会費用ですが、それは可視化しにくい。何かをしたことで発生するコストは見えやすいですが、何かをしなかった、たとえば女性の人材を活用しなかったことで発生するコストは自覚しにくいですから。
 高度成長期は農村部から都市部に安い労働力が参入してうまくやってこられた。しかし、現在は国内の労働力が比較的高くなり、新しい付加価値を生み出していかなければならなやすい現在の状況ですね。企業は新しい人材活用方法の必要を認識してはいるがその手段が見えていないという状態にあるはずです。今こそたとえばWLBの合理性について説得する道筋を示すことが重要だと感じています。
 ちなみに、企業には「女性は実際に生産性が低い」といったことを言う中間管理職もいますが、それは一種の予言の自己成就だと私は言っています。つまり、生産力を高めるインセンティブを女性から奪っているから生産性が上げられないだけなのです。世界各国における女性の経済的貢献を考えれば、日本人女性だけが劣っているなどということは絶対にあり得ないですからね。もっと外を見てくださいと訴えていくしかないです。

[『ダイバーシティ』をファンタジーで書いた理由]

 

――日本ではWLBという言葉は研究者の枠を超えて一般的な用語として浸透しましたよね。その過程で当初先生が考えられていたWLBのイメージとずれて捉えられてしまった側面もあるのではないでしょうか?

山口 ずいぶんありますね。本来WLBは人材活用のための手段であったはずです。つまり、単に労働時間を減らせという話ではなくて、時間あたりの生産性に基準を置くと、効率的に時間管理ができて働ける人であれば、労働時間が短時間であれ長時間であれ企業にとってマイナスにはならない。であれば、個人の希望に沿った労働時間を設定した方が、就業意欲が増していきいきと働けるという話なのです。決してゆったりゆっくり働こうという話ではない。しかし、日本の企業では福利厚生のひとつだと考えられてしまいました。つまりWLBを推進することは新たなコストを産むという見方ですね。そういう後ろ向きの考えがあるかぎり絶対に職場の柔軟性や女性の人材活用には結びついていかないですよね。
 一方で、ダイバーシティという言葉があります。ダイバーシティマネジメントという言葉が浸透したことからわかるように、この言葉は逆に狭く企業の人材活用の手段として捉えられた。確かにそういった側面はあるけれど、ダイバーシティという概念の根本にあるのは、様々な人、能力、生産性があるのだから、それを生かそうということ、そして、様々なハンディを負った人まで含めて十分機会を生かせる社会をつくっていこうということです。たとえばアマルティア・センは「経済成長のために人材を活かすのではなく、人材を活かすために経済成長が必要なのだ」と言っています。端的に言えば人材を活かせる社会に目指すのが本来のダイバーシティなわけです。それに関連して、私が『ダイバーシティ』という本を一般の人にも読みやすいファンタジーとして書いた理由は、ダイバーシティの考え方を企業の中での人材活用に限ってほしくなかったからです。しかし、そのような意図は伝わりにくいですね。
 とはいえ、こういった概念はこれまで日本になかったものですから、簡単なはずはないですね。当然、単なる輸入ではうまくいかないですし。今の社会構造をラジカルに変えることは難しいかもしれないですが、相互補完的に固まっている構造を崩すには一部だけ変えようとしても無理です。したがって、それを総合的に変えるための圧力をかけなくてはいけない。そのためには主張を根拠づける事実の蓄積が必要です。日本ではこれまでほとんどやられてことなかった本当の政策評価を含めてね。

――ダイバーシティという概念は、人のものの見方や意見と切り離せないものだと思われますが…

山口 思想ですよね。

――そういった人の思想それ自体は定量的研究の対象にできるものなのでしょうか?

山口 いや、そういう思想がどのぐらい普及しているかについて研究はできますけれど、思想自体は科学の対象にはなりえません。たとえば『ダイバーシティ』でも、正直が重要なんだよ、だけど杓子定規に考えるのはよくないよ、という2段階で私自身の思想を伝えようとしています。そのように、科学として伝えにくい思想は、論文とは別の形で出しています。思想も重要だという私の価値観もあるし、市民社会化というさらに大きなテーマへとつながる道を進んでいくために、思想は絶対必要だと思います。
 戦後の日本社会は、基本的枠組みは変えずに、何かあるとそのつど問題対処的にここを変えましょうという考えできたわけですね。つまり、全体としてのあるべき社会のビジョンを押し出し、そのために法律を変えていくという発想ではなかった。それは一つの考え方だとは思います。しかし、結果的に日本がどうなったか。シェアードバリュー(共有された価値)、青木先生の言葉を借りればシェアードビリーフ(共有された信念)がどんどん減ってきていると感じます。日本は同質社会だといわれてきたけれども、もはやそうではない。世代間格差も世代内格差も大きい。
 ではそういった状況の中で、ゆるやかなつながりがあって、人々が意見を尊重しあい、支え合って、信頼しあえる社会をどう作っていくか。私は、人々がお互いに違うというダイバーシティを認めた上で、信頼し、合意しえる社会を作っていきたいという考えをもっているわけです。そのために、山岸俊男先生の言葉を借りれば昔の運命共同体のような安心社会に戻るのではない。むしろ信頼が重要なのだという思想が重要です。

[研究対象の分析手法は自ら開発]

――冒頭、WLBをはじめとする応用の基礎にある理論として統計モデルと合理的選択理論があるというお話を伺いました。先生が研究の中で一番関心を持たれている分析対象は広く人々の生活事象だと思いますが、それぞれの分析対象を分析する方法論はそのとき一番適当なもの、特に具体的な命題を引き出えるものを用いていらっしゃると考えていいでしょうか?

山口 興味を持った分析対象を観察する中で適切な分析手法を開発してきたというのが正確だと思います。人というミクロの単位に基づく分析には若い頃から興味がありましたが、特にロングギテュディナルデータに関心をもったのはコールマンの影響なのです。一般に社会学者は記述的で政策的志向性が強い人は少ない。しかし、コールマンは例外的にプレスクリプティブでした。ただの現象の理解を超えて、この学問は何の役に立つかということを常に考えていた。そして、特にその問題をミクロの個人の行動のマクロの社会への影響という観点から分析したのです。
 そういった関心を中心に、自分で関心を持つ問題を考え、それをターゲットにしたデータの制約下でも使える分析手法を考えようとしてきました。分析手法の開発に関して影響を受けた研究者の一人は恩師でもあり対数線形モデルを開発したレオ・グッドマンです。すでに計量経済学者が色々な仕事をしている分野でしたから、独自性を出すために従属変数がカテゴリー変数の場合、複数のカテゴリー変数間の関係が問題になる場合などいろいろ問題を考えました。主な貢献の一つは、医学ではキュアレートモデル(cure rate model)と言われているものです。いわゆるハザード率というのは単位が時間あたりのイベントの発生確率ですから、イベントの起こる最終的な確率が大きくなっても、あるいはイベントが相対的に早く起こるようになっても高くなるんですね。例えば、最終的に離婚する人が2割から5割になっても、早く離婚する人が増えても高くなるのです。しかし、その二つの変化は性質が全然違うものですよね。たとえば出生に関して、子どもを産まない場合と子どもを最終的には生むが遅く産む場合の違いは大きい。あるいは、日本、アメリカ、ヨーロッパを比べると、離職のハザード率はアメリカが一番高く、日本が一番低い。これは最終的に辞めない人が多いからなのか、長期雇用の人が多い、つまり早く辞める人が少ないからなのか。そういった問題が気になったので、その二つを分離するモデルを作りました。そのモデルはその後医学の分野でがん治療における完全治癒と延命の違いに関連しているという観点から、上に述べたキュアレートモデルとして発展してきました。そのようにして、内容的な関心から出発して、方法論を開発していったわけです

――一方で、比較的最近の論文では繰り返しゲームのモデルを使って親子関係の分析をされていますよね。

山口 子どもの社会化に興味を持っていたのですが、逆になかなか社会化しにくい子どもに対してゲーム理論的に有効な親の戦略というのは何かという問題意識でした。他人というのは絶対自分の思うようにならないという確信が僕にはあって(笑)、それは親子関係でも同じです。すごく出来のいい子でも、親からお金をもらったらドラッグに使いたい、といった親にとっては顔をしかめたくなるような選好をもっている。そういう人間同士が相互作用するとそう簡単に合意に達するものではないはずだという問題を親子関係でちょっと見てみたいと考えたわけです。
 それで、上で使った「ゲーム理論的に有効な」という表現は相手の協力を引き出せるという意味で用いています。ですが、普通のモデルを考えた場合、どうやってもそのような意味で有効な戦略が均衡にならないことがわかったのです。そこで、それを出発点に、ある種の罪の意識があれば行動は変わるのではないかといった行動が変化する可能性の典型的パターンを考え、それらを関数型で表現してみました。リスク選好が影響した戦略、相手が裏切っても条件次第で相手を許す戦略などを考え、どういう戦略がどういう条件の下で有効かを調べたわけです。
 一方、予言の自己成就や有機的社会化といったゲーム理論と親和性が高いと思われる他の問題を数理的に定式化した論文ではゲーム理論は使っていません。事象の起こる確率に依存してそれぞれの個人の利得が決まるのですが、事象の起こる確率が他の人がどういった行為を取るかに依存するというモデルでした。事象の起こる確率を経由したマクロな間接的依存関係です。そのモデルを使ってどういう場合に予言の自己成就が起きやすいかを分析しました。
 今後は、たとえばWLBといった考えがどのように社会の中に伝播していくかをデータが取って分析してみたいと考えています。

――そのように分析対象固有の性質に触発されながら分析手法を開発、応用されていく際に、それ自体意味や解釈を伴った行動モデルと実証にあたって用いる統計モデルは、どのような関係にあるのでしょうか?加えて、先生の論文ではしばしば経済学の文献への言及が見られます。特に行動モデルの構築にあたっては経済学からどのような影響を受けていらっしゃるのでしょうか?

山口 僕は、行動モデルと統計モデルが並列に存在していて融合してないんですよ。行動モデルについては、明確な仮説を導き出せるか、統計分析の結果と整合性がといった点から選択していますが、頻繁に経済学の理論に言及します。合理的選択という仮定を100パーセント肯定しているわけではないのですが、それを基礎にしつつそれからの逸脱が出てくるとすればそれは何かという視点で考える人間なのです。ダニエル・カーネマンとアモス・トバスキーのプロスペクト理論をはじめ新しい実験経済学や行動経済学の文献も読んでいますが、強い影響は受けていません。合理的選択に対するオルタナティブとなりえるような体系的理論を構築してはいないですからね。その意味で、経済学の古典的理論を参照しながらそこに欠けている社会学的ファクターを補っていくという姿勢でやってきました。

――経済学部の研究者の方との距離も近いのでしょうか?

山口 私は非常に近い。私以外のシカゴ大学社会学部の教授では、最近は性行動の話をする相手であるエドワード・ローマンやネットワーク理論で非常に有名なロナルド・バート(ブース経営学大学院との兼任教授)なども非常に経済学者と近いです。実は彼らも何らかの形でコールマンの息のかかった人たちで(笑)、コールマンに近い人たちが社会学の中でも経済学に非常に親近感をもっている。100パーセント信じているわけではないですけれどね。その他、ゲーム理論派もあって、さらにその中で通常のゲーム理論派、進化ゲーム理論派、私みたいに説明に使えればどちらでもいいといったいい加減な人間などに分かれます。
 ちなみに、コールマンの先生のロバート・マートンが中範囲理論と呼ばれる主張をしています。社会現象はマクロレベルの社会の中に埋まっているかもしれないけれど、それを完全には閉じたかたちで理論化するのは複雑すぎて難しい。だから、部分的であることを承知の上で理論化していこうという考え方です。たとえば経済学はその一つの部分を抽出するための非常にいい道具だと思いますね。あくまでの一つの部分という留保つきですけれど。

――手法としては経済学に影響を受けつつ、世界観としてそれ採用するのではないわけですね。

山口 ないですね。社会学というわれわれの学問は自由なわけですね。悪く言えばいい加減。分析の最終的な評価にあたっては方法論的厳密さが求められるけれど、その背後には多種多様な研究者がいるんですね。エスノグラフィーをやっている人や街へ出てインタビューする事例研究をやっている人なのです。そういった研究はある意味で科学的ではないと僕は思っているけれど、彼らは時々すごくいい洞察をする。すると、彼らの洞察はデータで裏づけできるか、一般化可能か、といった問題へと発展していくので、分業だと思っています。
 ただ、そういう観点から見ると、日本の社会学は総じて科学的ではないということになってしまいますね。相変わらず古典的理論家が何をどう言ったという文脈の解釈とエスノグラフィーが中心ですから。例外はたくさんいますが、やはり少数です。4000人ぐらいが所属している日本社会学会では、計量分析に真面目に取り組んでいる研究者は1割程度しかいないと聞きました(笑)。アメリカ社会学会では逆に計量分析が7割程度、エスノグラフィーや純粋理論は非常に少ない。ましてや古典理論の解釈をやっている人はほとんど希少価値を帯びているといっていいです。

――そういった違いは日米の大学教育の結果なのでしょうか?

山口 日本の社会学教育、研究では、社会学とヒューマニティと分離していないんでしょうね。ヒューマニティ自体は重要ですが、それと社会科学としての分析は意識的に分けなければいけません。たとえば僕の本『ダイバーシティ』にもヒューマニティと呼べる内容が入っていますね。それから、たとえば大学の学部の教養教育では人に考える力を与え、人を育てることを考えますから、ヒューマニティを含め雑多な要素が全て入ってくるわけです。それはいいんですよ。ですが、大学院は研究の専門家を育てるための訓練をする場所のはずです。日本の研究者は、しばしばその境界を意識せずヒューマニティと科学をまったく区別しないんです。その結果、研究においてさえ、たとえばドメスティックバイオレンスの研究をしている研究者が、計量的分析などほとんどせずに、被害者から聞いた話だけに基づくフェミニスト的解釈で男はこんなものだといった論評をしたりするわけです。まったく科学ではないよ。そういった論評は、自分はこう考えるという意見として発言しても構わない。アメリカであっても思想や政策を中心とした雑誌でそういった意見を発表して社会的影響を与えている研究者は多いですし、総じて尊敬を集めています。けれど、科学者としての分析とは区別しなければならないですね。論文を書くときは思想部分は禁欲的に落とし、検証しえた分析結果だけを書かなければならない。
 社会「科学」としての社会学に対する意識が希薄な背景には、日本では多くの社会学科が文学部にあることも影響しているのかもしれませんね。計量なんかやったって人の本音のところはわからないよ、みたいなことを言う人もかなりいました(笑)。僕は実証しなければ、一般的なことは何も言えないよって言うんですが。

【山口氏自身による付記】(2010/01/07 掲載)

 成田さんの「そういった人の思想それ自体は定量的研究の対象にできるものなのでしょうか?」という質問に、「いや、そういう思想がどのぐらい普及しているかについて研究はできますけれど、思想自体は科学の対象にはなりえません」と私は答えていますが、最後の「思想自体は科学の対象とはないえません」というのは舌足らずで説明不足でした。これは成田さんの「定量的研究の対象」という限定に対する答えです。

 一般に社会理論と思想は大きく関係しています。社会科学の「科学」の部分をどう捉えるかにも依存しますが、「社会科学」と「思想」の境界を明示的に取り払おうとしたのは、やはりマルクスでしょうか。私は「マルクス主義は科学である」という主張には全く同意しませんが、社会理論が思想を生み出すことは疑いがありません。

 この点は近代経済学も同じで、アダム・スミスの「神の見えざる手」の自由取引の考えをいわばデフォルトとし、その上でそれが成り立たない現象を特定化することで、自由の制限の条件についての思想を作り上げてきました。「成り立たない」現象とは例えば独占、公害(外部不経済)、囚人のジレンマ状況、情報の非対称がありモラルハザードが生じる場合、などですが、他にもフォーゲルが米国南部のプランテーション農業にとって奴隷制度に経済合理性があったと主張したことは、結果として道徳上、人権を経済的な自由の上位に置く必要性の意識を高めたと思います。ロールズの『正義論』もパレート最適などの理解に基礎を置いていて経済思想にも影響しました。

 また社会学では、文化の型に思想問題がからんでいます。例えば人間関係に依存しない普遍主義と人間関係に依存する特殊主義の区別とかです。規範を正当化するには何らかの価値観が必要なわけです。わが国の「恩」「義理」「恥」「忠」「孝」などのモラルはみな特殊主義儀的な価値観といえますが、それらの価値観になぜそれらが重要かのロジックが加われば、思想と言えるわけです。これに対して人間関係とは独立に行為の評価によって決まる「罪」とか、他にも「人権」とか「自由」とか「ダイバーシティ」などという価値観はみな普遍主義的なものですが、これらもなぜそれが重要かのロジックがあり、思想でもあります。
科学と思想の関係は、ロジックの部分について、例えばなぜ独占は禁止されるべきかとか、なぜ互酬の規範は社会に益をもたらすかとか、なぜこれからの社会でワークライフバランスが重要かについて、何らかの実証的な裏づけや理論的(特に数理理論的)根拠があるときに生じると思います。例えばワークライフバランスの達成や男女共同参画の実現について、どの部分では市場のメカニズムのゆだねようとする新自由主義的考えではなく、一定の法的介入が必要かについて、拙著『ワークライフバランス―実証と政策的減』では理論的かつ実証的裏づけを持って主張しています。

 もっともどういう社会が望ましいと考えること自体は、科学を超えた思想の部分が必ずあります。それはわれわれ人間が自由意志を持ち、選択する存在であり、科学はそのガイドラインを与えるのみであるということと深く関係していると思います。


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