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ゴシップこそ社会的インタラクションの活力;『言葉の起源:猿の毛づくろい、人のゴシップ』

ゴシップこそ社会的インタラクションの活力
" Grooming, Gossip, and the Evolution of Language" Robin Dunbar, Harvard University Press, 1996.
(『言葉の起源:猿の毛づくろい、人のゴシップ』ロビン・ダンバー著  松浦俊輔・服部清美訳 青土社 1998年)


評者:上柿崇英(東京農工大大学院、Friend of VCASI

“Grooming, Gossip, and the Evolution of Language”  Robin Dunbar,
Harvard University Press, 1996.
(『言葉の起源:猿の毛づくろい、人のゴシップ』ロビン・ダンバー著  松浦俊輔・服部清美訳 青土社 1998年)

本書は80年代から90年代にかけての進化心理学的な議論を応用し、新しい言語起源論を提起したユニークな文献である。従来言語は、われわれが抽象的概念操作を可能にする思考の装置として、また、それを通じた技術や文化の伝承といった情報伝達の装置として理解されてきた。しかしダンバーの提起によれば、言語の最も根本的な機能は、シンボルの操作でも、複雑な情報伝達でもなく、他愛のないゴシップの中にある。すなわち、今日自分は誰と会い、誰が何をしていたのか、誰と誰が今ホットで、誰と誰の関係はもう終わりなのか、といった日常的な社会的インタラクションにこそ、われわれが言語を獲得した重要な起点が含まれているというのである。そしてさらにそのゴシップの起源をさかのぼると、それは猿や類人猿の行う“毛づくろい”に端を発すると説いている。

Robin Dunbar:オックスフォード大学教授(専門は人類学)

 言語の起源がゴシップにあり、さらに毛づくろいに行き着く、というDunbarの主張には、二つの重要な含意がある。第一に、この仮説が正しいならば、言語の最も基本的な機能が極めて社会的な脈絡を持つこと、そして第二に、言語の持つ機能が、交わされる情報の内容とは別に、その行為自体に重要な意味があることである。言語は一旦獲得されると、様々な用途に用いられるようになった。しかし彼によれば、言語はわれわれの祖先が毛づくろいの持つ社会的機能を拡張する時に生まれたのであり、シンボルの操作や複雑な情報伝達といった機能はあくまで言語のもたらした副次的な機能なのである。

 Dunbarの“言語毛づくろい起源説”が面白いのは、これまでの議論ではなかなか見えてこなかったわれわれの社会的インタラクションの一つの本質的な側面を浮き彫りにするきっかけを提起していることにある。社会的知能は確かにマキャベリ的な脈絡を通じて発達してきた経緯があったとしても、Dunbarの視点がなければ、われわれにつながる系譜の種族が、なぜこれほど集団に対する共同性を求める性向を持っているのか、というが十分には説明できない。ヒトは極めて集団的な生物であり、それは単なるマキャベリ的な同盟の蓄積ではない。

 われわれは生得的に、自らの係わる集団を熱望し、またその集団を維持しようとする。そして言語の一つの根本的な機能が、そういった関係性を維持する機能してきたこと。こういった斬新な視点がDunbarの議論からは伺う事ができるだろう。

 注目したいのは、彼がこの仮説を踏まえて現代社会の生活様式について言及している点である。彼は実際にある企業の事例を取り上げている。そこでは以前、社員が昼食時にサンドウィッチを食べる休憩室が設けられていたが、建物を改築した際、設計者はこの非効率な区画を取り除いた。休憩室に人が集まると談話が生まれるため、この部屋をなくして一人ひとりが自分の机で食事をするようになれば、仕事の効率が上がるだろうと予想したのである。ところが、これが逆の効果をもたらしてしまった。すなわち、一見無駄に思えた雑談の空間が、実際には集団に活力を与える、見えない機能を果たしていたのである。この視点は、今日のsocial capital論につながる議論を生物学的にアプローチするものであり、非常に興味深い。

 同じように、この視点からは、現代に生きるわれわれがカルトなどの一見親密そうに見える集団になぜこれほど傾倒してしまうのか、という問題にもアプローチできる。近代は伝統的な社会的ネットワークを解体させてきたために、人々はアトム化し、彼の言い方を借りれば“150人相当の親密な社会的ネットワーク”を構築することが極めて難しくなっている。ここで一連の議論が示唆をするのは、人間の社会的な本性はもともとそういったネットワークを強く求めるように作られているのであり、ヒトがたやすく先の集団にのめりこんでいくのは、その代償という契機に他ならない、ということである。そして、これが特定の条件下で現れると全体主義という形にまで転倒していくこともあるだろう。Erich FrommのEscape form Freedomを想起するように、これは社会思想の分野では文化的・社会的近代をめぐる長年の争点でもあったが、ここでもまたその今日的な意味を理解する上で、極めて重要な論点を提起することがきるのである。

もっとも、Dunbarの仮説に問題がないわけではない。特に彼は脳の肥大化を社会的知能の脈絡のみによって語っているが、われわれの知能は実際にはもっと複雑であり、脳の肥大化には実際にはより多くの要因を議論として考察する必要がある。例えばSteven Mithenは、脳の肥大化は社会的知能と技術的知能(technical intelligence)、博物学的知能(natural history intelligence)という三つのモジュール群のドメインが同時に発達することによって起こり、またホモ・サピエンスの特徴が、このモジュール間の架橋によって生じた創造的な知能ネットワークの誕生と深く係わっていると述べている。Dunbarの用いた統計データ、すなわち大脳新皮質の割合と、群れの規模、毛づくろい派閥の規模、毛づくろい時間、といった指標は、今後の研究によって様々な角度から改めて検討していく事が求められるだろう。しかしこれまで見てきたように、彼の議論が大胆であるがゆえに、それは自然科学に対してだけでなく、人間の実体的な様式を問題にする社会科学や、それを思想的に扱う社会理論や社会思想といった、“人間を扱う幅広い関連分野”に対して、新しいインスピレーションを引き起こしてくれるものである。本書はその学際的な観点からも一読に値する。