Language: 日本語 English

経済学にも求められる統合的な人間像の提示

経済学にも求められる
統合的な人間像の提示:
合理的なヒト、それを超える人間

『心は遺伝子の論理で決まるのか - 二重過程のモデルでみるヒトの合理性』
キース・スタノヴィッチ著、椋田直子訳、鈴木宏昭解説/みすず書房、2008年
(The Robot's Rebellion, Keith E. Stanovich, 2005)


評者:瀧澤弘和(VCASIフェロー、多摩大学教授)

『心は遺伝子の論理で決まるのか - 二重過程のモデルでみるヒトの合理性』
キース・スタノヴィッチ著、椋田直子訳、鈴木宏昭解説/みすず書房、2008年
The Robot's Rebellion, Keith E. Stanovich, 2005
本書は、認知心理学者である筆者が遺伝子を複製の単位とする生物的進化理論と、ミームという複製子を単位とする進化理論の二つを用いて、個体としての人間存在の意味という壮大なテーマに取り組んだ力作である。前半では、生物的進化において発生しうる遺伝子とその乗り物(vehicle)としての個体間の利益相反の問題を扱い、後半ではミームという複製子と個体としてのヒトとの間の利益相反を扱っている。本書の原題、The Robot’s Rebellion即ち『ロボットの反逆』とは、遺伝子やミームといった複製子の目的ではなく、個体としての目的を追求することがどのようにして可能なのかを探る、という意味である。スタノヴィッチはこの難問に対し,可能な限り,われわれ個体としての人間にとって「元気の出る」結論を引き出そうとしている。
Keith E. Stanovich:トロント大学発達・応用心理学部門 応用認知科学部長(専門は認知科学)
概要

 20世紀から21世紀にかけて、ヒトの心のあり方に関して進化論的アプローチが適用されるようになり、われわれの人間観が大きく変容しつつある。そこで新たに浮かび上がってきた人間観は、かつての社会科学が当然視してきたような自律的・意識的な意思決定を行うヒトではなく、進化の法則にしたがって形成されてきた心を持つ人間である。進化論的決定論が勢いを増している時代に、人間存在はどのようにその意味を復権させることができるのか。本書は、その壮大なテーマに認知心理学者が取り組んだ成果である。

 本書の核心は、個別にはよく知られた上記の利益相反の構図の上に、最近の認知科学によって明らかにされつつあるヒトの合理性のさまざまな類型に関する議論を重ね合わせてヒトの合理性の固有の意味を探ろうとしている点にある。

 本書の議論は、ヒトの脳にTASSと分析的システムという二つの異なるシステムが存在しているという想定と、それぞれが遺伝子の利益から明らかに異なった距離を有している、という想定に基づいているが、これには反論の余地があるだろう。また後半では、「ミーム」というやや問題含みの概念が用いられている。しかしながら評者は、スタノヴィッチがこの独特の理論的枠組みを構築することで、一つの整合的な人間像を提示することに成功しているように思われる。ヒトは進化プロセスに拘束されながらも、それを超える可能性をもった存在であるというメッセージ、またヒトが固有の意味を探求することは、人間に「認知改革」を迫ることでもある、というメッセージは強烈である。

 翻って、経済学をスタノヴィッチの見地に立って見るとき、未だに伝統的な経済学が依拠してきた合理的人間象と実験経済学が明らかにしてきた、それ逸脱した人間象との関係を、整合的・統合的な方法で理解できているとは言えない。経済学の領域でも、人間観の大きな転換点の中で、スタノヴィッチが本書で謳っているような大きな統合の試みが必要とされているのではないだろうか。


 20世紀から21世紀にかけて、ヒトの心のあり方に関して進化論的アプローチが適用されるようになり、われわれの人間観が大きく変容しつつある。そこで新たに浮かび上がってきた人間観は、かつての社会科学が当然視してきたような自律的・意識的な意思決定を行うヒトではなく、進化の法則にしたがって形成されてきた心を持つ人間である。進化論的決定論が勢いを増している時代に、人間存在はどのようにその意味を復権させることができるのか。本書は、その壮大なテーマに認知心理学者が取り組んだ成果である。

 スタノヴィッチが本書で採り上げる進化理論は、遺伝子を複製の単位とする生物的進化理論と、ミームという独自の複製子を単位とする進化理論の二つである。本書の前半では、生物的進化において発生しうる遺伝子とその乗り物(vehicle)としての個体間の利益相反の問題を扱い、後半ではミームという複製子と個体としてのヒトとの間の利益相反を扱っている。本書の原題、The Robot’s Rebellion即ち『ロボットの反逆』とは、進化のプロセスにおける遺伝子やミームといった複製子が追求する目的ではなく、個体としての目的を追求することがどのようにして可能となるかを探る、という意味である。スタノヴィッチは、可能な限り,個体としてのわれわれにとって「元気の出る」結論を引き出そうとしている。

 本書の核心は、個別にはよく知られた上記の利益相反の構図の上に、最近の認知科学によって明らかにされつつあるヒトの合理性のさまざまな類型に関する議論を重ね合わせてヒトの合理性の固有の意味を探ろうとしている点にある。

 まず、前半部分の議論から迫ろう。すでにドーキンスが『利己的な遺伝子』で展開した議論でよく知られているように、進化のプロセスにおいては遺伝子の利益と個体の利益には相反が発生しうる。スタノヴィッチは、こうした「遺伝子の利益への奉仕」と「個体の利益への奉仕」は、最近の多くの認知神経科学や認知心理学の研究によってヒトの脳に見出されつつある二つの異なるシステム、即ち「TASS(The Autonomous Set of Systems)」と「分析的システム(Analytic Systems)」にそれぞれ対応していると主張する。

 「TASS」は、特定の目的を遂行する脳内の自律的・並列的なモジュールで、外的な情報がインプットされることで駆動され、その機能を途中で停止することはできない。処理スピードが極めて高く、動作は通常意識されない。例えば顔を認識する、感情を感知する、といったモジュールのことで、高度な知覚プロセスすら担っている。他方、「分析的システム」は連続した情報処理、集権的実行コントロール、意識的で広い範囲にわたる役割を果たす動作を担い、その目的は一般的で特定されていない。「TASS」はまた、より古い進化的構造を持っているため個人差も少なく、主に「再生産」という遺伝子の目的がより直接的にコードされている。これに対して「分析的システム」は、比較的新しく獲得された部分であるために個人差が大きく、主に個人の利益に奉仕するコントロール・システムである。遺伝子の目的への奉仕という観点からは、TASSは「ひもの短い(short-leashed)」システム、分析的システムは「ひもの長い(long-leashed)」システムと表現される。二つのシステムは時に衝突することもあるが、多くの場合はひとたび駆動されて止められなくなったTASSよりも、分析的システムの方が優位に働く。

 ヒトはその直面する環境が多様であったため、進化のプロセスで分析的システムを獲得するに至ったと考えられている。この結果、ヒトは進化の歴史上初めて、遺伝子と自身の利害が対立する構造を理解できる生物になった。スタノヴィッチは、人間は遺伝子の目的よりも自身の個体としての目的を優先させることが出来ると主張する。

 ここでは、「手元にある(物質的、心的)資源を所与として自身が最も望むものを手に入れられるように行動すること」が道具的合理性と定義されているが、それが遺伝子レベルではなく個体レベルの目的に奉仕する点が重要であるとされている。スタノヴィッチは、道具的合理性だけでは、原題の「ロボットの反逆」に十分であるとは考えないが、その必要条件であることを強調する。

 スタノヴィッチの進化心理学者に対する批判も興味深い。認知心理学における研究は、TASSの作用によってヒトの合理的行動が妨げられている例に満ちている。スタノヴィッチが、「認知改革(cognitive reform)」の立場からこれを正すべきであるとするのに対して進化心理学者たちは、分析的システムの存在を否定し、ヒトが進化のプロセスで獲得してきたTASSが合理的なものであると考える。しかしTASSは、「ひもの短い」目標を達成するために形成されてきたものであり、複雑化した現代社会では、抽象的・仮説的な思考や合理的思考が必要となっている。個体の自律的な目標達成のためには、TASSではなく分析的システムの必要性が高まっているというのが彼の主張である。

 後半部分では、人間行動における目標設定(意図)の側面に焦点が当てられ、より広い合理性の概念が検討される。スタノヴィッチによれば、「なぜ、頭のいい人たちが多くの愚かなことをするのか」という問題は、単なる情報処理に関係する「アルゴリズム的レベル」と、目的・欲望・信念との関係で物事を分析する「意図的(intentional)レベル」の二つのレベルに分けて考えることで理解可能になるとしている。前者は「知能」(頭のいいこと)に関連し、後者は「合理性」(愚かなこと)に関連する。

 TASSと分析的システムはそれぞれ、意図的レベルとアルゴリズム的レベルをもつ(下図は本文の表を簡略化したもの)。TASSでの意図的レベルは「ひもの短い」目標に関連し、アルゴリズム的レベルにはほとんど個人差はない。他方、分析的システムでの意図的レベルは「ひもの長い」目標に関連するが、思考態度の個人差が大きいという特徴をもつ。またそのアルゴリズム的レベルは知性における個人差が大きいことで特徴づけられる。

 いわゆる「頭のいい人」たちは、情報処理を行うアルゴリズム的レベルにおいて分析的システムが、TASSよりも優位に働く(表中、左向きの矢印)。しかし、この人たちが「合理的な行動」をとるとは限らないのは、意図が「ひもの長い」目標をもつ分析的システムから発しているとは限らないからである(表中、下向きの矢印”ではない”)。要するに、「頭のいい人」はTASSの間違いを正すポテンシャルがあるのに、そうする意図が作用しないのである。

 それでは、分析的システムの「ひもの長い」目標(分析的システムの意図的レベル)それ自体は、どのように形成されるのであろうか。ここに「ミーム(=meme)」というもう一つの複製子の存在が介入してくる。ミームとは、「あるアイディアが他の脳に複製される時に、全く新しい行動や思考を引き起こす可能性があるもの/そのような脳の状態を作り出す因子」である。スタノヴィッチは、ミーム理論にはいろいろな反論があるとしつつ、「あるアイディアはそのアイディア自身の性質を理由に広がる」というテーゼを受け入れる。ミーム自身が目的を持っているので、ある種のミームは個体としてのヒトの役に立たない可能性もある。そのため、科学的・合理的思考方法を用いて役に立たないミーム(junk meme)を批判的に評価する必要があるという。しかし、科学的・合理的思考方法それ自体がミーム複合体(memeplexes)であることに注意が必要である。このことはミームをもってミームを評価する作業が求められることを意味する(この作業を論理実証主義者、ノイラートの論文『プロトコル命題』の例に因んで、ノイラーティアン・プロジェクトと呼んでいる)。非基礎付け主義的(non-foundationalist)であるにも関わらず進歩し続ける現代科学の例は、こうしたノイラート的企てが可能であることを示している。

 先刻の意図的レベルの目標が持つ構造の議論を思い出そう。TASSの目標は、ほとんどが遺伝子によって決定づけられた、個人差のない特定的なものであった。他方、分析的システムの目標は個人差があることからもわかるように、ミームに影響されたものの占める割合が大きい.この部分はさらに没反省的に獲得されたミーム的目標と、個人が反省的に獲得したミーム的目標の二つに分けられる。ここで重要なのは、非反省的に入り込んだミームはそれ自身の利益に役立っているが、ホストであるヒトの役には立たない可能性が大きいことである。だからこそ、ミームは不断にフィルターにかけてやらなければならない。こうしてノイラート的企てとその反省という二つの作業によって、ミーム自身の利益からヒトは自らを守ることができるというのである。

 最終章でスタノヴィッチは、「合理的に再構築された自己意識」を提示する。それはチンパンジーですら備えている道具的合理性を超えた、合理性の概念である。即ち、ヒトは単に道具的合理性だけでなく、「象徴的効用」(ノージック)、「表現的動機」(エーベルソン)、「コミットメント」(セン)など、文脈や意味を考慮に入れた合理性の概念を備えており、自身の一次的欲求それ自体のあり方に対して選好を持つ存在でもある。このことを自覚することで、ヒトの持つ象徴化能力をより徹底した内生的方法で活用し、欲求そのものを批判的に評価することができる。最後にスタノヴィッチがロボットの反逆の武器として挙げるのは、このような合理性を用いて合理性を評価する「メタ合理性」によるノイラート的試みである。

 本書の議論は、ヒトの脳にTASSと分析的システムという二つの異なるシステムが存在しているという想定と、それぞれが遺伝子の利益から明らかに異なった距離を有している、という想定に基づいているが、これには反論の余地があるだろう。また後半では、「ミーム」というやや問題含みの概念が用いられている。しかしながら評者は、スタノヴィッチがこの独特の理論的枠組みを構築することで、一つの整合的な人間像を提示することに成功しているように思われる。ヒトは進化プロセスに拘束されながらも、それを超える可能性をもった存在であるというメッセージ、またヒトが固有の意味を探求することは、人間に「認知改革」を迫ることでもある、というメッセージは強烈である。

 翻って、経済学をスタノヴィッチの見地に立って見るとき、未だに伝統的な経済学が依拠してきた合理的人間像と、実験経済学が明らかにしてきたそれを逸脱した人間像との関係を整合的・統合的な方法で理解できているとは言えない。経済学の領域でも、人間観の大きな転換点の中で、スタノヴィッチが本書で謳っているような大きな統合の試みが必要とされているのではないだろうか。