発表者:
宮崎広和(コーネル大学人類学科・東京大学社会科学研究所)
司会:青木昌彦(VCASI主宰)
コメンテーター:神山直樹(ドイツ証券)
コメンテーター:春日直樹(一橋大学)
概要:
昨今の金融危機で「ウォール街の文化」、すなわち米国投資銀行で働く人々の行動パターンと倫理に注目があつまり、現在様々な議 論が展開されている。議論のひとつの焦点は、投資銀行におけるインセンティブのあり方である。これは非常に重要な視点であることは間違いない。しかし、こうした議論の前提となっている人間像は、合理性と情動のはざまを生きる個人であり、さまざまな関係性によって構成されるより多元的な現実を生きる実際の人間とはかけはなれた、単純化された人間像である。世界中で多くの人々に犠牲を強いた今回の危機は、より現実的な人間像にたった市場とその規制のあり方を考える絶好のチャンスである。
1990年代後半以降ミシェル・カロン、カリン・ノール=セティナ、ドナルド・マッケンジーらヨーロッパにおいて科学社会論(Social Studies of Science)をリードしてきた社会学者たちは、科学から金融へと分析の視点を移し、文化人類学者や人文地理学者とともに金融社会論(Social Studies of Finance)という学際的なフィールドを構築した。このフィールドの特徴は、金融市場を、金融(経済)理論、コンピューター技術、数式、文書、さまざまな制度的・組織的要素、そして身体・情動・思考を持つ生身の人間のネットワークとして構築されたものと理解することである。このように金融社会論は、新古典派金融論とも、行動金融論とも異なる立場から、金融市場のさまざまな側面に関する実証的研究を展開してきた。例えば、マッケンジーは、オプションのプレミアムを算出するブラック=ショールズ式に基づいた計算手法をオプション・トレーダーが共有しトレーディングに使用することによって、オプション市場がブラック=ショールズ式に合致するように動き始めた過程を分析している。
この学際的フィールドに初期から参加した私は当初から、金融社会論にマリノフスキー、モース、ポランニー以来の経済人類学的視点にもとづいたより広い経済観・市場観を導入するよう努めてきた。今回のセミナーでは、金融社会論のこれまでの成果を紹介しながら、現代金融理論の中核をなし、金融商品のプライシングやトレーディングの基本的手法として確立しているアービトラージ(裁定取引)とそれに内包されたさまざまな理論的・技術的・社会的要素に焦点をあてる。具体的には、1987年以降東京のある大手証券会社の自己売買部門で先物やオプションなどのデリバティブを使ったアービトラージに携わってきたトレーダーたちのキャリア(金融実務とそれに付随したさまざまな知的営為の軌跡)を分析し、アービトラージ的手法と思考が、日本の制度的・組織的要素との関係のなかで、過去20年余の日本のデリバティブ市場とデリバティブ・ビジネスの展開にどのような意図され、そして意図されない影響を与えてきたか検討したい。そして、この事例を通じて、金融理論、金融技術、そしてそれらを扱う人々の行動、思考、想像力こそが金融市場そのものであり、今後の金融制度改革の議論の進展のためには、市場と市場行動をより広角にとらえる視点が不可欠であることを示したい。