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「ザ・クール・ステート」を目指す?

「ザ・クール・ステート」を目指す?

執筆者:青木昌彦

円滑な外交にはPDが不可欠

 組織にとってPRと略称されるパブリック・リレーションズが不可欠であるように、一国の外交にとってもパブリック・ディプロマシー(PD)が重要な役割を果たす。国が国際的認知を得、国際関係を円滑に進めるには、密室における外交官同士の交渉だけではなく、国の在り方やアイデンティティ(固有性)について、他国の公衆や知識人に直接話しかけることが必要だ。それがPDである。

 ワシントンを舞台にこのPDを活発に展開している北野充公使が最近、スタンフォード大学で「ナショナリズム」について話をした。こういうトピックとなると、愛国教育で洗脳された若い中国人の留学生たちが、判で押したような質問を繰り返す。小泉元首相の靖国参拝や憲法改正論議などの最近の日本の動きは、軍国主義的ナショナリズムの再現ではないのか、と。

 北野公使は、こういう質問をあらかじめ予想し、それに答えるのがPDの仕事と考えているのであろう。ナショナリズムといってもその目的によっていろいろある、と説明していた。たとえば国威発揚のため、主権確立のため、異人種・異文化を持った諸集団の統合のため、あるいは国民のアイデンティティを確立するため、などである。今の日本国民に共通した「ナショナリズム」があり得るとすれば、最後の理由しかないというのが、講演者の意図であったろう。

 またそのセミナーでは、アメリカ人のジャーナリストが次のような質問をしていた。「日本は八〇年代のバブル時代にはジャパン・アズ・ナンバー・ワンと大いに国威を誇っていた。最近になると中国の勃興に直面して、対抗意識を燃やしている。どちらのナショナリズムが、より危険か」と。

 この発言は、外国人が日本のナショナリズムをどう見ているか、のひとつの典型例を示すといってもよい。たしかに日本の論壇の一部は中国への対抗意識、優越意識を鼓舞しようと試みている人たちがいるにはいる。私は、それがかえって日本の国際的評判を落としたり、アジアの安定性を揺るがすほど危険なものに発展するとは思わない。だが、基本に戻って、今の日本人のあいだに、はたして外国に向けて積極的に表現しうるようなナショナル・アイデンティティがあるのだろうか、とあらためて考えさせられる。

 日本人の優越意識はバブルと共に舞い上がったが、バブル破裂後の低迷期には、「失われた十年」として表現されたような、自虐的な気分に落ち込んだ。その極端な落差は、ほとんど集団的な躁鬱現象といっても良いほどだった。二〇〇〇年代になると鬱的気分はだんだん薄れてきたが、内向きの状態にはあまり変わりない。小泉政権の下では何かが変わりうるかも知れないという漠然とした期待が醸し出されたが、その政権が終わってみると果たして何が変わったのか、という思いにとらわれる人も少なくないだろう。どの方向を国が目指すべきかにかんして、明快な公論が戦わされているわけでなく、何か社会的不祥事が生じると、世を挙げて責任者を追及する。そしてテレビ・カメラの前で責任者が頭を下げるという、いかにも日本的な儀式が繰り返される。それによって社会の規律は保たれるということはあるかも知れないが、それだけでよいのか、という焦燥感にも駆られる。

 こういう状況を乗り越えるには、国民のあいだの絆を紡ぎ直し、世界にそのアイデンティティを誇りうるような、何らかの価値観の再構築が必要なのか。あるいはそんなことを考えるのは、このグローバル化のご時世にそぐわない時代錯誤に過ぎず、世界の変化に自己責任で適応できる強い個人の確立こそ、今の日本には必要なのか。

 この二つの視座は、一見相容れないもののようにみえる。しかし、それらは必ずしも二律背反ではなく、ある場合には相補的でありうるのである。どういう条件のもとでそうなるか、日本の行く先にかんして、何かの示唆をそこから引き出しうるだろうか。

 伝統的には、新古典派経済学やそれに影響を受けた政治学では、社会は固有の信念、目的、情報能力を持った強い個人から成ると考えた。そういう個人の選択が市場や選挙によって集約されることにより社会が構成されるとか、あるいは(マルクス主義もそうであるが)強い影響力を持ったエリートの信念が社会を支配すると考えた。他方、伝統的な社会学は、社会に固有の価値体系が個人に先行して存在し、あたかも砂のようにバラバラな個人を社会構造にまとめ上げるセメントとして機能すると考えた。個人が先か、社会が先か。この見方の相違は、鶏が先か、卵が先か、のような一見、決着のつけ難い対立を思い起こさせる。

社会秩序の成り立ち

 しかし最近、社会科学のフロンティアでは、社会秩序の構成やその変動を理解するのに、個人と社会のあいだの二律背反的な区別を考え直す機運が出てきた。

 伝統的な価値観とか、社会的な規範といっても、それは結局数世代の経験が積み重なって出来あがってきたもので、神や、超越的理性、政府によって与えられたものではない。国家といわれる国のかたちにしても、会社というような組織にしても、それらは人々のあいだの様々な試み、やりとり、模倣、競争などの結果として生まれ、鍛えられ、選別され、構成されていく。そういう意味では、人が皆で作っていくものである。よのにはスーパー・プレーヤーもいれば、バイプレーイヤーもいるが、人それぞれが、その持ち場に応じて、相手の手を読み、世の中を読み、自分の行動を選択する。ゲームの理論家たちはそうして生まれてくる秩序を、個々人の選択のあいだの均衡として理解する。自然現象の均衡との違いは、システムの構成要素である人間は、原子などという物質とは異なり、相手や世界を読んで行動するということにある。そういう意味で人間の相互作用はゲームなのである。社会とゲームの類推は、数学的なゲーム理論が始まるずっと以前から、プラトン、ヒューム、経済学者となる前の倫理哲学者アダム・スミス、『ホモ・ルーデンス(プレイする動物としての人間)』という本を書いた歴史学者ホイジンガ、晩年のハイエクなど様々な叡智の持ち主たちによって行われてきた。

 だがゲームの理論は、社会の秩序をゲームの均衡と見なすことによりジレンマに直面することにもなった。均衡が成り立つとは、それを支える人々の読みも均衡する(全体均衡と整合的になる)ということだ。そうでなければ、均衡は覆されるだろう。だがそういう読みは、そもそもどこから来るのだろうか。個々人がたとえ強く、限りなく合理的であっても、真空の中で、先の先まで世の中のうごき、人の出方を読み尽くすことは出来ない。

 だから個人の合理性の含みをとことん追求しようとしたゲームの理論そのものの中から、社会の秩序が成り立つ(均衡が生ずる)のは、人々の認知の構造のあいだに、あらかじめ何か基本的に共通なものがあるからでないか、という考えが出てきた。そういう共通の構造とは、長い人間の歴史のなかで、文化と遺伝子とが「共進化」しつつ形成されてきたのだという考えもある。だが他方で、個々人の遺伝子には差異があることからもわかるように、その共通構造は原型的であるに過ぎない。世の中の動きにゲームのルール(秩序)が適応していく具体的な過程では、個々人の意志や努力、能力の働く余地もおおいにあるだろう。でなければ、社会は変わり得ないだろう。つまり人々のあいだに個別的なものと共通するものが相補ぎ合いながら働くこと(相補性)によって、社会の安定的な秩序はダイナミックに構成されていくのである。こうして社会科学における「鶏が先か、卵が先か」問題は、常識的な所に落ち着く。

 平たく言えば人々の営みあって作られる世の中であり、また世の中あっての個人でもある。私事になるが、最近私は「自分史」を書く機会を与えられたが(『私の履歴書・人生越境ゲーム』)、「自分史」は分かちがたく「時代史」と絡み合っていることを今更ながら強く感じざるを得なかった。だが、個と社会のいずれもが独立してはあり得ないとすると、その二つのあいだの相補性を明示的に意識し、そのありかたを考えることに、日本の行く道にかんしてもある種の示唆が得られるのではないか。

日本の前にある二つの問題

 そういう可能性として、二つのことを取り上げよう。まず、社会保障の問題である。最近「格差社会」にかんする関心が高まった。人口構成の変化といった要因を考慮に入れると、実際に格差が拡大したかどうかはまだ論争の余地がある。しかし、そうした議論が社会の関心事となったということ自体が意味するのは、家族構成、人口構造や雇用慣習の変化によって、これまで当たり前と思われていた「安心感」に、大きな揺らぎが生じてきたということであろう。こういう漠然とした不安感が社会を覆う限り、人々の活力にも翳りが生じる。いくら社会保険庁の不始末を追及し、組織いじりをしても、解決にはならない。また世界経済が深刻な停滞期に直面しているこの期に及んで、成長による税の自然増収の可能性に「神風」のごとき望みをかけても、人々の不安は拭えない。その実施には慎重を要するが、消費税の社会保障税化とそれにもとづく最低限の給費保障という、簡単にして透明なルールを作ること、それによって政府の社会保障領域における裁量の余地を最小限にして、小さな政府を実現することが望ましい。そういう個人と社会(その代理人としての政府)のあいだのシビル・ミニマムにかんする契約を共通の土台として、人々や組織それぞれが生涯プランを選択・設計するような仕組みに移行すれば、個々人の自己責任感や公民意識、個人努力への動機が確かなものとなりえよう。

 次に、環境・エネルギー問題である。現在六五億に達した地球人口は、今から四〇年後には九〇億に達するともいう。また中国やインドの経済成長は紆余曲折は経るとしてもまだまだ続くだろう。現在の地球温暖化は、人類のコントロールを越えた一五〇〇年周期の自然現象の一局面だとする学説もあるが、これからエネルギー資源、希有金属資源、大気、水、土壌、森林などの地球共有地(グロ-バル・コモンズ)には凄まじい負荷がかかっていくのは間違いない。日本は水、森林以外これといった自然資源を豊かに持つというわけではない。でもたとえそれを持っていたとしても、それを有効に用いる技術がなければ「豚に真珠」に終わってしまう。つまり人的資源・知的資産にもとづく環境親和的(environmental-friendly)な技術開発のフロントランナーになることが日本にとっての命綱となる。

 環境親和的な技術とは、何も自動車や、発電、電池など、エネルギー節約的な産業技術に限られない。有機自然農法、さまざまな金属資源の循環利用、伝統工芸技術の創造的活用、家庭消費のパターンや生活技術の改良など、人間活動のあらゆる分野にその芽はある。だからその開発は科学者や大企業のエンジニアだけがなし得るわけではない。伝統的な産業や仕事に従事する人々や家庭で生活技術を駆使する主婦たちも参加しうるし、また参加しなければならない。それは人々のあいだに広く分散して蓄積された知識を総動員し、さらに蓄積を重ねていく過程であるという意味で、すぐれて文化的な過程でもある。

 他方で、環境親和的な技術革新の開発には、個人や企業のあいだの健全な競争も必要である。それは革新的な能力と意欲を涵養し、また複雑性に対応する多様な可能性(オプション)の実験をつうじて、国全体の開発投資の将来期待価値(オプション・バリュー)を高めうるからだ。日本の官界や経済界には、まだ排出権市場の導入に反発している人たちもいるようだが,それは経済のロジックと全く合わない。どうせ排出量に規制がかかるなら、技術革新によって生ずる余剰を市場で価値実現しうるシステムのほうが、技術革新の動機付けともなれば、技術開発力を金の卵にすることもできる。

 知恵にもとづく競争は文化的蓄積を促進し、また逆に文化的蓄積は知恵にもとづく競争の成果を高める。環境親和的な技術開発を媒介として、競争と文化的伝統は二律背反ではなく、相補的となりうる。そして、この競争は人々を格差によって引き裂く社会ではなく、人々を環境保全の活動に誘い、その成果の共有によって互いを結びつける共生社会の創成に貢献するだろう。

かっこよく涼しい国家

 国民の努力と期待の焦点をこのように方向付けることに、この地球共有地の危機の時代における日本の「ナショナル・アイデンティティ」の可能性がある。ある大臣は最近「日本はもはや経済一流でない」といった。しかしそう卑下することもない。技術革新の揺籃地であるシリコンバレーでも最近はクリーン・テクノロジーが注目を集め始めているが、日本も環境親和的な技術の開発に有用な知識と文化の蓄積においてフロンティアにある、といっても世界で嗤う人はいない。

 スタンフォードのセミナーの後、ディナーの会話で「軍事国家」とか「産業国家」とかの流儀でいうと、日本はどういう「国家(ルビ・ステート)」としてこれからアイデンティティを主張しうるのだろうか、ということが社交的な話題となった。そこで「ザ・クール・ステート」というアイディアがあった。数年前アメリカのメディアで日本のアニメやマンガ、ケータイ、ファッション、料理、建築などのスタイルの先端性をさして「ジャパニーズ・クール」といわれたことがある。この場合、「クール」というのは「かっこいい」というような意味だが、それに地球温暖化を抑えて「涼しい状態(ルビ・ステート)」を目指すという意味をかけた洒落だ。

 地球温暖化に象徴される環境危機は、ひとつの国民国家の枠を越えたグローバルの問題ではある。しかし、これまでの文化的、技術的な発展経路の延長線上に、日本がこの問題の対応に積極的にイニシアティブをとれば、それは、グローバル・コモンズの維持という倫理的義務とも両立するという意味で、一国家の枠を越えた真の意味でのグローバリズムの種をも宿しているのである。

(青木昌彦・米スタンフォード大学名誉教授・二〇〇八年三月記)