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多様化の時代をどう生きるか


多様化の時代をどう生きるか

執筆者:青木昌彦 VCASI主宰・国際経済学会連合(IEA)会長

 今世紀の初め、ある高名なエール大学法学部教授が、『会社法の歴史の終わり』という論文を発表して評判になった。株主支配による会社統治の優越性は世界的に疑いもなく確立したので、もはや理論的にも、実践的にも論争の余地はなくなったということだった。『歴史の終わり』とは、ソ連邦の国家体制の崩壊をうけて、イデオロギー対立の時代の終わりを示唆したフランシス・フクヤマの本のタイトルのもじりだが、昨年おきた世界的な金融危機は、世の中はそう単純でないことを明らかにした。ウォール・ストリートの貪欲が世界を引き回す「ひとつの時代」は終わったが、ある大きな出来事が社会秩序の変化の引き金になるという意味での歴史は終わらない。

 では、現在の経済危機はどう克服されうるか。今までの常識の延長線上に「やはり金融ではなく、ものづくりでいこう」、「IMFのような国際機構の再編成によってグローバルな金融規制を強めよう」、「日米同盟を再強化しよう」[あるいは「今は大きな政府に依存して、三年位後の経済回復を待とう」などと聞くだけでは、歴史感覚に富んだ示唆は伝わってこない。

 金融市場のグローバル化という「普遍的な原理(?)」の勢いが弱まると、各地域経済が、それぞれにかかえている独特のアジェンダ(課題)が鮮明に浮かび上がり、だからといってそれぞれが世界に背を向けて自己の課題に取り組むわけにはいかない、―そういう時代の姿が明らかになった。では多様化・多極化時代の国際的な秩序はどう進化するのか。「多様性からの利益」を引き出すのに、各国はどうお互いを補い合っていくのか。

 アメリカで、オバマが「チェンジ」をスローガンに、大衆参加の大統領選挙を制したことは、人々が何らかのパラダイム変化の可能性を予感し、求めつつあることをあきらかにした。期を同じくしておきた経済危機は、限りのない金融貪欲の追求が(少なくとも当面は)正統性を失ったことを示すばかりでない。しばらくの間は「大きな政府」(財政赤字)を受け入れざるを得ないとしても、消費の過剰、外国からの貯蓄供給への依存などによって支えられてきた経済構造に、パラダイム的な変化が生じなければならないだろう。国家経済諮問会議の委員長となるサマーズはすでに昨年の冬ころから、そういう変化には、十年という時間を要するだろうと予告していた。

 中国をみよう。いわゆる「改革・開放」「和諧社会」というアジェンダを完成させるには、日本の総人口を上回る二億人以上の人口を十年、二十年かけて農村から移動させなければならないという。それを可能にする雇用を作り出すには、少なくとも毎年八%程度の経済成長が必要だとも言う。八%の成長とは、日本から見れば羨むべき高さに聞こえるが、実は中国にとって日本の0%成長にもなぞらえる死活水準であるわけである。しかしこの成長が維持可能になるには、非効率なエネルギー消費、経済組織や建造物にかんする巨大化信仰、流動労働力の搾取、恣意的政府の介入など、従来型の経済・技術パラダイムの変化が伴わねばならないだろう。

 翻って日本のアジェンダといえば、人口、経済社会構造の変化に応じた世代間の関係を、コミュニティとして再構築しえていないことから生じる「不安」の解決だろう。国民が政治に求めているのはバラマキではなく、各世代がそれぞれ安定した予想を持って自立的に将来に立ち向かうのを助ける社会保障の再設計と実行であろう。だがそうしたアジェンダを明確な言葉でかたり、実行しうる政治勢力はまだ結集していない。近いうちに不可避的に起こるであろう政界再編成はそうした課題についての公約に基づいて起こってほしい。

 言うまでもないことであるが、ポスト経済危機に向けてのアジェンダは、米中日を越えても、多様な形で存在する。だが、それらのアジェンダに共通するのは、人々の意識や価値観、世代間関係、雇用のかたちなどと言った、すぐれて人間にかかわることである。だからこそ、その具体的な課題は地域的であり、多様である。だが図に例示したように、多様性は相補性の親でもありうる。つまり、国際間の多様性そのものが、それぞれの国・地域に固有な課題の解決に、相互に役立ちうる可能性がある。多様性の時代はまた相互依存の世界でもある。

 中国と日本の間には、環境親和的・再生可能エネルギー技術と、持続的に拡張する市場機会との補完性があるとはよく指摘されている。また今から数十年のうちに、中国は日本とともに最も老齢化した人口構成の国となり、アメリカが先進国の間では最も若い国になるという展望をふまえると、中国のアメリカへの貯蓄の供給(ドル資産の蓄積)は当面は理にかなったものといえるだろう。そのことは、アメリカの外交政策を拘束するが、他方昨年の大統領選挙のように、人権・平等といった価値観への自らのコミットメントを明らかにすることによって、中国の社会構成の進化に道徳的示唆を与えることができよう。

 また日本とアメリカは、世界的な「共有地」とも言うべき自然・気候環境の保全維持に補完的な役割を果たしうる。ノーベル物理学賞受賞者である精力的なチューローレンス・バークレー研究所所長のエネルギー長官の指名に見られるように、アメリカは大規模なジオ・エンジニアリングや、発想の革新的なクリーン・テクノロジーの開発にリーダシップを取りうる可能性がある一方、日本は生活や産業に根ざした環境親和的技術に独創性・競争性を発揮しうるだろう。

 このようにポスト経済危機に向けて各国が抱えている多様のアジェンダ群の解決は、必ずしも、何らかの量的成果(たとえばCO2排出量基準)を求めての包括的な国際協定や、単一ルールの強制機関としての国際機構をせっかちに構想するだけでは対処し得ないだろう。新しい秩序は、二国間、地域間、多極間(G20など)、国際間などのさまざまなレベルにおける多様で、地道な協力関係の試行・選択を通じて、進化していくだろう。

 そしてこういう多極的な世界で、アメリカと日本は、オバマに象徴される明快な普遍的言葉の力と、多様な価値観と共生しうる柔軟な姿勢の交換を通じて、互いを補い合うのが、ひとつの楽観的なシナリオたりえよう。

 人間的要素にもとづく多様化の時代における市場競争は、量の競争ではなく、質の競争ともなるだろう。機械、機器によっては完全に代替されえないという意味で、不可欠とされる人間の認知資産を活用し、環境親和的な技術や社会貢献に積極的な企業が、製品市場や資本・労働市場によってますます評価される傾向にあることが、国際規模で学術的に明らかにされつつある。金融危機の克服の過程において、この傾向はさらに明らかになるであろうし、またそうなることが克服の鍵ともなるだろう。

 日本の自動車産業が当面している困難は、環境と量的拡大という二兎を同時に追ったことにもよるが、やがてその軌道を修正することによって、世界に先駆け回復することだろう。また「緑の雇用」と「クリーン・テクノロジー」をキーワードとするオバマ政権の産業政策が働き出すと、アメリカの自動車産業の再生は思いのほか、学界などデトロイトの外でのイノベーションをきっかけに起きるかもしれない。

 量から質へと競争の焦点が移るに従い、同質の数理モデルを用いるが故に同じような間違いに突き進んでいく危険を孕んだ金融手法の限界も明らかになった。金融市場は、多様な可能性に関する多様な評価を集約するという情報機能を担う場に向けて進化しなければならない。幸いにも「会社法の歴史」はまだおわっていない。むしろ新しい「多様化の時代」の歴史が始まろうとしているともいえる。

<初出:日本経済新聞>