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進む経済学の領域拡大 人間行動を多面的に解明

進む経済学の領域拡大
人間行動を多面的に解明

執筆者:西條辰義 大阪大学教授

「あなたのセーターは誰が編んだのか」などと尋ねられると、あなたはいぶかしがるだろう。値段はおぼろげに覚えているが、どこの誰が編んだのかわかるはずもない。一方、少し前の時代であれば、例えば「大好きな祖母が編んでくれたので大切に使っている」といった反応が返ってきたのではないか。今日の「市場」は財貨の背後にある情報、つまり、商品に付随してわき起こる「感情」を消し去る巨大装置といってよい。これは市場は「無数の商品の価格を発見するスーパーコンピューター」であり、そこで利己的参加者の行動を分析する二十世紀風の経済学的な見方を思い起こさせる。

21世紀の社会科学は「分業」から「融合」へ

 ただこの市場も、外部性や不確実性があったり競争者が少数だったりすれば失敗する。例えば、外部性の典型例である公共財供給の実験結果をみてみよう。理論では、被験者が自己利得を最大にするなら、誰かが費用を負担して財を供給すればそれに「ただ乗り」することが可能なため、公共財供給は過小になる。

 だが我々の最新研究では、被験者がお互いの利得構造をよく知っており、しかも行き着く先(均衡)に確信が持てるなら、自分が少し損をしてでも相手の足を引っ張る「いじわる」行為をとり、さらに供給が少なくなってしまう。一方、逆に相手の利得構造をよく知っていても、均衡が複数あってどこに落ち着くか見通せない場合には、「協力」戦略をとる被験者も出て、理論値より若干だが供給は増える。つまり理論による均衡から乖離(かいり)してしまうのだ。

 理論なら得られた情報は自己の利得の最大化のみに使われるとするのだが、生身の人間は必ずしもそうはしない。このような実験と理論のギャップはどこからくるのか。

 その一つは、数十万年にわたるヒトの進化のプロセスで形成された性向を我々が保持しているとする見方である。肥満を気にしながらも目の前にあるおいしそうなケーキを食べてしまう。その昔、そうしないと生存確率を下げてしまった経験が遺伝子にすり込まれているのかもしれない。

 もう一つは、経済学自体に由来するものだ。すなわち十九世紀後半から二十世紀はじめに起きた数理革命(限界革命)にあるとする見解だ。当時、「経済学の命題は時空を超えて普遍的に成立する法則である」との見方が勝利し、二十世紀の経済学は利己的な個人の起源を問うことなく、それを暗黙のうちに想定する簡便法を採用した。ところが、これが伝統になってしまった。例えば、一般均衡理論を確立した経済学者ワルラスの後継者で厚生経済学の分野で名高いパレートは、選択の主観的動機や理由を問うことはなく、選択の結果である「生の事実(データ)」のみに注目すべきだという立場をとった。つまり、主観的動機の分析は、社会科学の他の分野に任せてしまったのである。

 同様の分業が社会科学の各分野でも起こった。大胆に単純化していえば、人間行動という多次元なものを、経済学は「インセンティブ(お金)」、心理学は「エモーション(感情)」、政治学は「パワー(権力)」、社会学は「ノルム(規範)」というおのおのの刀で切り、別々にその切り口を眺めてきたのである。そのため、たとえ切り口に重なりがある場合でも、互いに「会話」すらできないという状態が出現したのである。

経済実験結果を神経科学で説明する動き

 経済学では、二十世紀後半から盛んになった被験者を用いる実験研究がこの分業体制を少しずつ壊し始めた。被験者一人のレベルなら、損をすることを嫌う損失回避、不確実な状況を回避する不確実性回避、さらには、他者を想定するなら、相手と自己の利得を同じようにする不平等回避、また利他性、互恵性など、次々と従来の経済学にはなじみのない概念が登場する。

 ゲーム理論通りの結果が出ないことで著名になったのが最後通牒(つうちょう)ゲームである。実験者が被験者Aに十ドルを与え、Aはこれを自分と相手に分けねばならない。例えば、Aが相手に四ドル、自分に六ドルという提案を相手にする。もし相手が「ノー」といえば、二人ともゼロドル、「イエス」といえば提案通りというルールである。

 ゲーム理論で考えると、相手はゼロドルよりも一ドルのほうを好むだろうから、相手に一ドル、自分に九ドルとすれば、相手は「エイス」と答えるに違いないはずである。ところが、各種の実験では相手に三ドル以下ならほぼ「ノー」という結果が出ている。

 このゲームは経済学というよりもむしろ心理学や神経科学の研究者の関心を集めている。例えば米アリゾナ大学のサンフェイ教授らは二〇〇三年に最後通牒ゲームをプレーしている被験者の脳活動を計測。合理的プロセスに関係しているといわれる右背外側前頭前皮質と、嫌悪感に関係しているといわれる右前島皮質を前帯状皮質が調整しているとのモデルを提示した。つまり、「理性」と「情動」という双対意思決定プロセスが脳内にあるというパラダイムである。このゲームのニューロサイエンス(神経科学)的な決着はついておらず、現在も議論が続いている。

 実のところ、「理性」と「情動」、「合理」と「非合理」、「意識」と「無意識」という二つないしそれ以上の意思決定が脳内にあるに違いないとの実験研究は多数にある。それを脳活動できちんと実証するのが、神経科学の重要な課題であろう。もう少し時間を要すると思われるが、脳内での複数意思決定の構造が明らかになるというブレイクスルーがあれば、理論構築の仕方も変わってくるに違いない。狭い合理性だけで、複雑怪奇なモデルを組まなくても説明可能な事象が増えるからだ。

 ただ、正統派の経済学研究者にとっては、最後通牒ゲームは感情をかき立てるゲームそのもので、通常の経済的意思決定とは無関係であるかもしれない。そのため、彼らはそんなゲームにおける脳活動を計測しても意味がないというだろう。一方、可能な限り単純な環境で脳活動の計測を望むニューロサイエンティスト(神経科学者)にとっては、最後通牒ゲームは正統派の研究者が重要とする意思決定問題の前哨戦なのである。

 このようなフロンティアに挑む若い日本人研究者は少なくない。例えば、放射線医学総合研究所の南本敬史氏らは、サルの水に対する需要関数を推定し、さらには、脳の一部を破壊しその機能をとることや、ニューロン活動を直接記録することによって、その脳内メカニズムの解明に迫っている。需要関数というデータの背後にある主観的動機に迫ろうとする研究である。

 生理学研究所の出馬圭世氏らは、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を使ったヒトの実験で、金銭報酬と社会的報酬(他者からのよい評判)とが脳内の同じ場所(線条体)で表象されていることを発見し、社会的報酬であっても金銭報酬と同様に処理されている可能性を示した。つまり、脳内で何らかの共通の尺度(通貨)を用いて様々な異なる種類の報酬を比較し、ヒトは意思決定をしているのかもしれないのである。

 こうした研究は一人の主体を対象にしているが、複数の人々が同時に相関する公共財供給タイプの神経科学の研究は始まったばかりで、これからの課題である。

各分野の「対話」が今後いっそう重要に

 このように知らず知らずのうちに経済学は従来の枠組みにとらわれずそれが対象とする領域を拡大し始めている。同様の現象を社会科学の他の分野の人々も経験することになり、領域そのものが大きく重なり始めている。そうなると、各分野の研究者は、人間行動を解明するのに、一つの刀では十分に切れないことに気づき始めている。

 こうした新たな状況で、各分野の研究者は、おのおのが従来持っていた実験手法や理論が他の分野とぶつかりあってしまうことも経験している。筆者は組織、政治、社会、意思決定、集団、文化、生物などの研究者が集合した文部科学省特定領域研究「実験社会学―実験が切り開く二十一世紀の社会科学」に参加しているが、こうした新たな社会科学の可能性を求めた各分野の研究者たちの対話は今後いっそう重要になろう。

<初出:日本経済新聞 2008年9月30日 『経済教室 』>