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制度研究と限定合理性

制度研究と限定合理性

川越敏司 : 公立はこだて未来大学准教授 VCASIフェロー

 制度研究にとって、人間行動を詳しく知ることがますます重要になってきている。かつてのマクロ経済政策を巡る理論的論争においては、裁量的な政策を取る政府の行動は、民間に先読みされているので効果を発揮せず、悪影響すらあるので、むしろ裁量をやめて、政府は一定のルールに則って政策の運営をすべきだとの主張がなされた。この主張の是非を論じるのは本稿の目的ではないが、経済政策決定の場面でもゲーム理論的な思考が重要になったきっかけであったことだけは間違いないだろう。

 いまそのゲーム理論的な思考の基礎である人間行動の前提が実験室実験によって揺さぶられている。行動経済学という名で総称される一群の研究が、経済学の世界を変えようとしているのである。行動経済学の基本的立場は、伝統的な経済学において前提とされる「利己的で」「合理的な」人間像を一部置き換えることによって2つに分かれる。即ち一つ目は、利己的な動機付けを利他的なものに変え、人間を「利他的で」「合理的」であるとする立場である。これは不平等回避や互恵性といった理論に代表される。もう一つが、利己的な動機はそのままにして合理性の要求を弱める立場で、これが本稿のテーマに掲げている限定合理性である。では、この限定合理性と制度研究はどのように関わっているのだろうか。

 厚生経済学の基本定理によれば市場は資源配分上もっとも効率的な制度であり(アダム・スミスの「神の見えざる手」)、また、ハイエクは、市場は経済主体間に分散して保有されている情報をもっとも効率的に集約できる情報効率的な制度である、と述べている。では、市場のもつこのような性質はどの程度、伝統的な経済学が想定する利己的で合理的な人間像に依存しているのだろうか?

 実験経済学の領域では、市場理論の基礎となるいくつかの前提条件が満たされていなくても、実験室において市場均衡が達成され、効率的な配分が実現されることが示されてきた。また、予算制約の範囲内でランダムに取引する非合理な経済主体(知性ゼロの取引者)であっても、市場は効率的に資源を配分できることがシミュレーションによって示されている。制度の設計上重要な市場の効率性と、個人の合理性との結びつきは、伝統的な経済学が想定しているほどには強くないことをこの研究は示している。一方、市場を離れて、もっと外部性の強い公共財供給問題では多くの場合、理論的に設計されたメカニズムが実験室ではその性能(例えば、真実表明)を十分に発揮できないことが明らかになっている。理論的に設計された制度の性能が現実に効果を発揮するか否かは、こうした限定合理的な主体のあり方に大きく依存していることがわかってきた。それでは、制度の設計にあたって、どのような限定合理的な主体を想定すれば良いのだろうか?そのヒントを以下で示していく。

 カナダにあるドーナツ店のドライブ・スルーでの出来事を紹介しよう。その店を訪れる人々は、ときどきおもしろい「ゲーム」をする。まず最初に誰かが自分のドーナツだけでなく、その直後に並んでいる客の分まで支払いをする。次の客は自分の順番が来て、すでにその代金がすでに支払われていることに驚く。そして、その客もまた自分の直後に並んでいる客の代金を支払う。こうして、最後に誰かがこの「ゲーム」を終えるまで、30分以上も、この第3者への贈与(ギフト・ギビング)が行われ続けるというのだ(Joseph Heath, Following the Rules, p.63.)。

 ゲーム理論に詳しい人は、これは「ムカデ・ゲーム」と呼ばれているものと極めて類似していると考えるだろう。利己的で合理的な客にとっては、自分の番が来たら前の人の恩恵にあずかるだけで、次の人には何も残さないことが最善である。そして、全員がそのような行動を取ることが予期されているかぎり、誰も最初にお金を出そうとはしないだろう。これが標準的なゲーム理論の予想である。それなのに、なぜ彼らはすすんで一見、損な行動を取るのだろうか?この場合、将来もう一度出会うかどうかわからない未知の第三者とのやり取りであることに注意する必要がある。このような状況での協力行動は,社会学や進化生物学では間接互恵性と呼ばれており、その成立条件の研究が進んでいる。

 ムカデ・ゲームは、ゲーム理論における後ろ向きの帰納法という推論形式の矛盾点を指摘するために編み出されたものである。90年代にいくつかの実験室実験が行われ、ゲーム理論の予想よりは、上で述べたようなギフト・ギビングが見られやすいことがわかった。この現象は、このゲームのプレーヤーたちの中に、ある一定程度、無条件でギフト・ギビングをするプレーヤーの存在を仮定することで説明できると当時は主張されていた。つまり、人々の利他性こそがギフト・ギビングという現象を引き起こす鍵というわけである。そして、ムカデ・ゲームの標準的な設定では、ギフト・ギビングがより効率的な(全員の利得を高めるような)結果を生み出すことになる。

 ところがここで、ムカデ・ゲームの実験結果を「利他性」で説明することに疑念を表す研究が出てきた(Palacios-Huerta and Volij, AER, 2008)。それは、あるチェス・トーナメント会場で行なわれた実験が元になっている。GM(グランド・マスター)やIM(インターナショナル・マスター)といった称号を持つトップ・レベルから、アマチュアのレベルまで、それぞれ棋力の違うプレーヤーが被験者となって、ムカデ・ゲームの実験に参加したのである。研究のネライは、チェスの棋力とムカデ・ゲームでの行動との相関関係を調べることであった。アレキサンダー・コトフ(Alexander Kotov)の歴史的名著『グランド・マスターのように考える』(Think Like A Gand Master, Batsford)で示されているように、GMの思考法は、ゲーム理論や人工知能の研究者が合理的な思考法として認めている後ろ向きの帰納法と極めて類似していると考えられたので、訓練や対局で磨き上げた棋力の高い者ほど、後ろ向きの帰納法に従ってプレーするだろうと予想された。事実、実験結果によればGMはほぼ100%後ろ向きの帰納法に従ってプレーし、IMも非常に高い割合でそうであった。チェスでは標準的に用いられている棋力を表す数値であるELO(イロ)レーティングと、ムカデ・ゲームでの行動には高い相関があったのである。

 この実験結果は、従来から指摘されていたムカデ・ゲームにおける後ろ向きの帰納法からの逸脱が、プレーヤーの利他性の表れというよりは、相手の行動を先読みする分析能力の違いによって生じているという可能性を示している。

 しかし、果たしてチェス・プレーヤーを合理的・論理的な思考をする代表のように考えても良いのだろうか?チェスの知的ゲームとしての名声は揺るがされないように思われるかもしれないが、かつてこの常識に果敢に挑戦した人物がいた。他ならぬ、19世紀を代表する詩人・小説家の一人、エドガー・アラン・ポーである。ポーは、推理小説のはしりとも呼ばれる『モルグ街の殺人事件』を書いたが、その冒頭にやや詳しすぎるほどのチェス批判が展開されている。

 ポーの主張のポイントは概略、次のようなものである。チェスには色々な種類の駒があり、その動き方も多様なので、対局に一番必要なのは、(思考力よりも)誤って大事な駒を取られないよう盤面に注意を払う集中力である。駒の動きが単純なチェッカーのほうがよほど思考力を要するゲームである。そして本当の分析的な知性とは、相手の行動を慎重に観察し、たとえ対戦相手の手の内を知らなくてもその出方を予期できるような相手の心を読む能力である。この能力は、まさにコントラクト・ブリッジのプレーの鍛錬によって醸成されるものである。だから、

 「最高のチェス・プレーヤーといっても、単にチェスの名人にすぎないかもしれない。しかし、ブリッジに熟練することは、心と心とが争うすべてのより重要な取り組みにも成功できる能力をもつことを意味する。」(The Fall of The House of Usher and Other Writings, Penguin Classics, p.190.)

 ミステリ界の女王と呼ばれるアガサ・クリスティもまた、『ひらいたトランプ』という作品で自身のブリッジへの堪能振りを示していることから、どうも推理作家にとって、相手の心を読む分析的な知性は、ブリッジによって養われることになっているらしい。だから、ポーの見解に従えば、相手の心を読み、最善をつくさなければならないまさにゲーム理論的な状況により適応しているのはブリッジ・プレーヤーであって、チェス・プレーヤーではない、ということになる。

 よって、チェス・マスターを被験者にして行なわれた先ほどの実験結果だけでは、ムカデ・ゲームの実験における「不合理な」結果を、プレーヤーの利他性ではなく、相手の行動を先読みをする分析能力の違いによって説明すべきだという見解を受け入れて良いのかどうか、決定的なことはわからない。

 そこで、筆者と共同研究者は、相手の行動を先読みする能力の違いを考慮したレベルK理論(level-k theory)を用いて、過去の実験室実験データを洗いなおしてみた。レベルK理論では、Kで表される整数で、相手の行動の先読みをする能力の違いが表される。能力の低いプレーヤーから高いプレーヤーまで、様々なプレーヤー間のプレーの仕方(選択)を理論的に導出する。その上で、実験データからプレーヤーのレベルの構成比率を統計的に推定するのである。先ほどのチェス・マスターを対象とした実験と違い、「チェスは知的なゲーム」といったあいまいな表現ではなく、ここでは相手の行動の先読みをする分析能力が明示的にモデル化されており、利他性が入り込む余地は一切ない。この検討の結果、利他性を考慮したモデルよりも、レベルK理論のほうがデータの説明力が高いことが判明した(Kawagoe and Takizawa, SSRNL ID:1289514, 2008)。ようやく、ムカデ・ゲームにおける実験結果は、相手の行動の先読みをする能力の違いによって説明できることがわかったのである。

 レベルK理論を用いることで実験結果がうまく説明できるのは、ムカデ・ゲームだけに限定されたことではない。マーケット・デザインの領域でよく研究されているオークションにおいても、レベルK理論は、均衡ビッドよりも高いビッドを行なう過剰入札や「勝者の呪い」といった現象を説明できることが知られている。最適オークション設計の理論もレベルK理論で見直す研究が進んでおり、レベルK理論は、いまや非常に有力な限定合理性のモデルとなっている。

 さて、発達心理学や認知科学では、「心の理論」という概念が提唱されている。これは、共感を示すといった、相手の心の状態を理解し、自分の中で再現できる能力のことを指すのだが、この「心の理論」をつかさどる脳のある箇所に機能損失が生じると、自閉症のような発達障害になると考えられている。まさに、人間の社会性をつかさどる重要な機能である。ニューロ・エコノミクスによる研究が進展して、脳内で繰り広げられる「心と心との争い」の仕組みが、いつか明らかになる日が来るだろうか?また、個人の行動における不合理性は、市場や制度全体の挙動からすればほんの誤差に過ぎないのだろうか?それとも、政策を決定する際に考慮せざるをえないほどの大きな影響をもつのだろうか?冒頭で述べた実験経済学の成果によれば、その影響は決して小さくない。制度設計の新しい方法論が必要になってきているのである。

<2009年3月25日 掲載>