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民主主義の成熟への努力を

民主主義の成熟への努力を

執筆者:河野勝 早稲田大学教授

 福田康夫首相が退陣を表明した。安倍晋三政権に続き、最後まで総選挙の洗礼を受けることなく、どちらも任期途中で国政を担う責任を放棄するかのように唐突な形で終わりを迎えた。こうした経緯からか、日本政治の現状を批判的にとらえる意見や論評が目に付く。自民党内では、新しい総裁選出に向けた動きが加速しているが、そうした慌ただしさの一方、誰が首相になろうと政治は変わらないというシニカル(皮相的)な見方がこれまで以上に強くなっているようにも感じられる。

政党間の「終わりなき競争」こそ民主主義

 日本政治に対する極めて低い評価は、報道や解説・論評の中で使われる言葉の端々によく表われる。例えば衆議院と参議院とで多数派が異なる状況は「ねじれ」と表現され、ねじれ状態に置かれた国会は立法のふとして「機能不全」に陥っているという見方すらある。

 福田首相自身は会見で、与野党対立の行き詰まりを、政治の「空白」という言葉で表現し、辞任の道を選んだのは、政治的空白を作らないため、と説明した。

 さらに一部の悲観的な識者は、日本政治のよきしきたりが「崩壊」したと憂い、今の政治の「貧困」を嘆いている。

 筆者は、今の日本の政治状況に関する、こうしたネガティブな評価や解釈は、根本的に誤っていると考えている。福田首相の辞意表明も含め、昨今の政治の流れが物語るのは、戦後六十年余を経ていよいよ日本の民主主義が本格的に成熟しようとしている、むしろポジティブな予兆だ。

 このことは、民主主義とは何か、また民主主義の元ではどんな政治が期待されるのかという、原点に立ち返った考察を通してはじめて明らかになる。今の日本では、政治が貧困なのではない。貧困なのは、根付きつつある民主主義の本質を理解せずに、政治を人ごとのように論評するような人たちの見識ではないか。

 そもそも民主主義とは、大著『資本主義・社会主義・民主主義』でJ・シュンペーターが定義したように、政権獲得を目指し政党間で繰り広げられる「終わりなき競争」のプロセスである。競争原理が働くことで、各政党は能力ある政治家をリクルートし、多くの有権者が支持する政策を打ち出す。選挙に勝ち政権についた与党は、次の選挙でも有権者から見放されないように、政治倫理を高め、公約した政策を実施しようとする。他方、敗れた野党は、与党政府よりさらに洗練された政治の実現を掲げ、次期選挙で回生を期すべく努力を続ける。

 ゆえに、民主主義政治の一つの理想の姿は、政党がより多くの得票・議席を求め、切磋琢磨し、選挙を争うことにある。この理解にもとづけば、今の日本の政治は、民主主義政治の本質を見事に体現している。各政党の切磋琢磨の結果、衆議院では自民党、参議院では民主党が、それぞれ第一党の地位を占めるようになったのだ。

 「ねじれ」という表現には、国会が正常ではない状態にあるという言外の響きがある。だが「ねじれ」国会ほど、政党間の終わりなき競争という民主主義の本質を象徴する政治状況はないともいえる。

首相退陣、民主主義の大原則軽視が真因

 一見、今回の辞任劇自体も成熟した民主主義にはふさわしくない異常事態のような印象を与えるが、民主主義の原点に立ち戻れば、いかに起こるべくして起こった事件であったかが理解できよう。

 シュンペーターがいう民主主義的競争は、決して無秩序の中で行なわれるのではない。すなわち、民主主義に政治は「あらかじめ合意したルール」の下で行なわなければならないとの大原則がある。中でも民主主義の成立に不可欠なのは、選挙の結果を、勝者のみならず敗者も受け入れなければならないということだ。

 選挙に負けた側が選挙結果を無視・軽視できるなら、あらかじめ合意したルールは後から踏みにじられてしまうことになる。それは後出しジャンケンで勝とうとするのに等しく、民主主義下では許されない。選挙に負けた政党は、潔く敗者として振る舞うことが期待されているのだ。

 ところが自民党は、あまりに長い間与党だったためか、昨夏の参院選で大敗しても、その政治的な意味を正確に理解できなかったようだ。大連立構想も失敗し国会運営は暗礁に乗り上げたが、その根本原因は、与党の政治的振る舞いがいわば勝者であり続けた点にある。安部・福田と連続して惨めな退陣に追い込まれた事実は、今の日本の政治では、もはや民主主義の大原則に逆らう行動ができないことを物語る。民主主義が一段の成熟を遂げるのに今必要なのは、政治家だけでなく国民一人ひとりがこの教訓を正しく受け止めることだろう。

 筆者はまた、与野党間対立の行き詰まりを、政治的「空白」ととらえて批判する見解にも違和感をおぼえる。元来、民主主義とは、一定の選挙期間を設けたり、議会内の審議を重視したりすることが示すように、政治的意志決定に手間と時間を掛けることを担保し奨励する政治体制である。

 スピードや効率性を求めるのなら、民主主義より、独裁政治や官僚(エリート)国家体制の方が優れている。でも我々は、民主主義を好み、選択している。それは、限られた人だけによる早急な政治決定が、必ずしも国家や国民に最適な結果をもたらさないことを、我々自身が歴史を通じて知っているからである。

 与野党の対立は、民主主義体制であれば、米国はじめおよそどの国でも経験するようなごく一般的な政治状況だ(図)。そこでは、お互いに知恵を出し合い、新しいコンセンサスを創出して対立を乗り越えよ、と要請されているにすぎない。それを謙虚に受け止めず、日本政治を悲観するばかりであってはならない。

 衆参で多数派が異なる状態が、国会の「機能不全」を生んでいるとの指摘も、政治学の常識からかけ離れている。近代以降の国家で立法府が二院制の形態を取るのは、政治の暴走を未然に防ぐべく、権力の抑制と均衡を実現しようとするためだ。戦後の日本でも、政権選択の機関ではない参議院の存在理由は、「お目付け役」や「良識の府」として、衆議院の暴走をチェックすることにあるといわれてきた。今、参議院がまさにその機能を政党に果たすのだとすれば、それを「機能不全」などと称するのは、政治的なレトリックでしかない。

 確かに連邦国家でない日本が二院制を採用する必要があるのかという議論はあろう。実は筆者自身はかねて一院制論者で、衆議院へのチェックは、参議院というもう一つの機関が共時的に行なうのではなく、選挙を通じ衆議院の構成を通時的に変えることで、実現すべきだと考えている。参院選が与党政府に対する不満の「ガス抜き」として機能してしまい、有権者が本来望む政権交代の機会が失われる恐れがあると考えるからだ。

与野党対立による行き詰まり、各国も経験

 しかし、いずれにせよ、制度の是非論を今持ちだし、政治の現状を批判するための根拠にすることはできない。二院制は、戦後一貫して日本の民主主義政治を支えてきた、一つの重要な「あらかじめ合意したルール」である。そのルールの下で今回出た結果がたまたま都合の悪いからといって、ルール自体に欠陥があるなどと出張するのは、前述の通り、後出しジャンケンで勝敗を操作しようとすることに等しいからである。

 福田首相の辞意表明後、自民党は総裁選を急ぐことでショックからいち早く立ち直ろうとしている。一方民主党など野党は、ポスト福田を巡る動きがメディアの関心を独占するのではと警戒する。こうした駆け引きの一つ一つがすべて政治なのであり、今の日本は政治に満ちあふれている。政治に「空白」などあるわけがない。政治が何たるかを誤解することなく、政党間の競争が民主主義ルールにのっとり、正々堂々と行なわれることを、我々は期待し、見守っていかなければならない。

<初出:日本経済新聞 2008年9月10日 『経済教室 -政治再生を問う(下)-』>