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「ふつう」のしくみと障害者


「ふつう」のしくみと障害者

執筆者:松井彰彦 東京大学経済学研究科教授

 当たり前のことだが、世の中の様々なしくみは「ふつう」の人を基準に作られている。手すりの位置や階段の段差のような物理的なものから税制や社会保障制度のような経済制度まで、目に見えるものから目に見えないものまですべての基準は「ふつう」の人である。その結果、「ふつう」の基準から外れている人には様々な呼称がつけられる。ホームレス、母子家庭、障害者などなど。かれらはグループ分けされ、必要最低限のニーズを行政に決められ、個々のニーズは「ぜいたく」と呼ばれ、社会のお荷物として生きていくことになる。「障害者」から「健常者」へ移ることにも障害(バリア)が設けられている。

 たとえばこんな例がある。ある職場に手取り足取り教えられないと仕事ができない人がいた。世の中では知的障害者と呼ばれている人だ。現場の上司がわかりやすくシールを貼ったり、やってはいけないことを繰り返し説明したりしながらようやく仕事を覚えて何とか役に立つようになる。自分で意見も言えるようになる。そうやって能力を伸ばしていったある日、一般就労ができるくらいだからと障害等級を下げられてしまう。勤め先からもらう給与は月10万円程度。一方、等級の変更に伴って失った障害者年金は6万円超。10万円を稼いで6万円を失ったわけだから、税率に換算すると、60%。この等級の決定が医師によってなされるため、その不透明感は、いわゆる被扶養家族の「130万円の壁」問題と比べても著しい。さらに、この人は職を失ったとき、ふたたび等級を上げてもらえる保証はどこにもない。自立支援どころか自立の意欲を殺(そ)ぐしくみだが、これが「ふつう」の所得体系に乗らない人たちに起こっていることだ。

 われわれは名刺交換からメールのやりとりに至るまで、日々の行動や判断の多くを慣習や規範に拠ってこなしている。慣習や規範によって、われわれの考える労力は大幅に節約されている。しかし、これらの慣習や規範は「ふつう」の人を基準として作られている。建物に例えてみよう。2階建ての建物には、「ふつう」の人が上れるように階段がついている。しかし、もし「ふつう」の人がオリンピックの体操選手並みの筋力を持っていたら、建物には消防署にあるような上り棒がついているだけで階段もなかったかもしれない。そのとき、上り棒を上れない人は「障害者」と呼ばれるようになる。

 仕事も同じだ。職場環境も就労形態も「ふつう」の人を基準に作られていく。そのほうが効率的だからだ。しかし、それは市場理論が謳う市場の効率性とは別物である。与えられた慣習の下では効率的であっても、慣習や規範自体が効率的なものであるとは限らない。ましてや、それが分配や公正の面から見たときに望ましいものである保証はまったくない。だからこその社会保障制度であるが、一億総中流などと「ふつう」を強調してきた日本の場合、他の先進国と比べても障害者福祉にかける予算は圧倒的に少ない。「ふつう」の人に対する公的社会支出の対GDP比は18.6%とOECD(同20.5%)の中では中の下であるのに対し、障害者にかける公的社会支出の対GDP比は0.7%とOECD(2.3%)の中では下の下である。(注:いずれもOECD2003のデータ)

 「ふつう」意識が強い社会において、「ふつう」の人は、なかなか「ふつう」を相対化して見ることができない。福祉に携わる人たちですら、「ふつう」の人と「ふつう」でない人を分け隔て、後者を助けるという意識がある。市場に携わる人も福祉に携わる人も「ふつう」の人との間に境目を作ってきた。しかし、その考えは障害当事者によっても見直されつつある。「ふつう」を疑ってみる。「ふつう」を少しずつ広げてみる。境目をぼやかしてみる。そして、見えてくるものを見つめる。そうすることで新しい就労への道も開けてくる。その主役はわたしであり、あなたである。

<2009年1月21日 掲載>