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VCASI公開フォーラム『コーポレーション』を振り返る


3月28日に開催されたVCASI公開フォーラム『コーポレーション』について、VCASI主宰者でプロジェクトリーダーでもある青木昌彦氏、VCASIフェローの鶴光太郎氏、中林真幸氏に加えリサーチアシスタントの小野田拓也氏が集まって、今後のプロジェクト展開に向けた「振り返りセッション」を行った(実施日:2009年4月24日)。これから三回に分けてその模様をお伝えする。

 


―――今日はお忙しい中、どうもありがとうございます。3月28日に「コーポレーション」プロジェクトのキックオフとして同名の公開フォーラムが開催され、土曜日にもかかわらず多くの方に来場いただきました。そこで今日は、まだ記憶が新鮮なうちに各セッションのご担当の方に若干振り返りをしていただいた上で、今後の展望、展開について自由に議論していただければと思っています。
 
まず、第一部のご担当だった青木先生に口火を切っていただけますか。
 

【各セッションを振り返る】

青木 今までコーポレートガバナンスやコーポレーションというと、いわゆるshare holder oriented model(株主指向型モデル)が、実践的にも理論的にも唯一の正しいモデルだということを、2000年にイエールのハンスマン(Henry B. Hansmann)やハーバード大学ロースクールのクラークマン(Rainer Kraakmann)らが共著で書いて、それが時代の風潮になっていました。ところが、最近のリーマン・ブラザーズの破産等をきっかけとした金融危機で、果たしてそれですむのかという反省機運が少し出てきたのではないか、関心が高まってきたのではないか、という気がしています。
 
 そこでまず、コーポレーションとは何なのかという基本問題をあらためて振り返ってみたいなと思いました。最近、スタンフォード大学の同僚のアブナー・グライフ(Avner Greif)も、”Why do Europe differ?”(「なぜヨーロッパで資本主義や民主主義が先に発展したか」)という歴史論文でその点に触れて、コーポレーションの本質的な意味を問題にしています。
 18世紀イギリスの有名な法学者であるグラッドストーン(William Ewart Gladstone)は、「コーポレーションで最も重要なことは個人の限界を超えた永続的な存在でありうること」と述べています。これは、人間の寿命を越えて存続できるという意味もあるけれど、僕は個人の認知の限界が集団的な認知を組織することで、個人の限界を超えずには出来ないことができるようになる、という側面がコーポレーション一般にはあるんじゃないかなと思うんですね。
 そうすると、会社とは株主価値を最大化するために存在し、経営者はそのエージェント、労働者はさらにその経営者のエージェントであり、資本が主体で人は道具だという考えを逆転して、人々の集団的な認知をまず本質としてとらえて、資本というのはむしろそういった集団的な認知のツールを提供しているということになりますよね。
 
 ところが最近、アンディ・クラーク(Andy Clark)らの”extended cognition”という議論が認知科学分野で盛んになっています。これは、人間の認知というのは必ずしも頭脳の中で起きていることだけではなくて、例えば数学の問題を解くときは鉛筆と紙を使うように、道具が認識のシステムの一部になっているという考え方。ひいては制度という、社会のルールも、みんなが作り上げた認識の枠組みのシステムの一部で、それをさらに認識のリソースとして使うという面もありますよね。 
 そういう認知システムという観点から、資本やコンピュータ、ロボットは集団的認知の道具、つまりある種、手段と目的の関係が今までとは逆転するような意味もあると思うんですよね。資本には意味がないということではなく、資本財や資本家、労働者、経営者という三者の関係を見直していく、というところから、組織のアーキテクチャやそのガバナンス的含みを考えていくということで、そこからさまざまなシステムが生まれるということですよね。
 そういう認知論の立場から組織を見ようということで、東京大学の植田一博准教授(総合文化研究科)にお話いただいたんですけれども、彼はむしろ消費者たちからのフィードバックが、企業が作っているモノの新しい使い方やイノベーションのきっかけになるというようなことをおっしゃっていました。これも経済学的な認知の考えとしては、大変意味のある考え方に連なるのではないかととても勉強になりました。つまり、市場がコーポレーションによる認知の補完物になる、という重要な視点ですね。
 
 次に、コーポレーションの本質を資本主義経済に囚われずに考えようということで、ヨーロッパで初めてローマ教会などがコーポレーションとして立ち上がってきた。そこで、日本、中国、イスラムなどでは「社団」組織が、ヨーロッパと同じように出てきたのか否かという疑問が湧いてきます。出てこなかったとしたらどのような制約があったのか。また、そこで生まれてきた何らかの社団的組織が、その後の資本主義的会社組織に歴史依存的な、思想的な影響を与えたのか、あるいは逆に影響を受けているのかということも興味深い問題です。ここからは歴史がご専門の中林さんにいろいろオーガナイズをしていただいて、大変おもしろかったと思います。
 
―――そうですね。日本、中国、イスラム、ヨーロッパと広域にわたり、まとめるのに苦労されたと思います。でも、いろんなバリエーションがあって、一番面白かったというような感想もいただいています。中林先生、いかがですか。
 
 
中林 そうですね、フォーラムを終えた現在の時点で、こういう方向もあり得たかな、ということをお話させていただこうと思います。
 
 いま現在のコーポレートガバナンスの在り方をどう考えるかというところから始めましょう。そこで19世紀に成立したシステムを自明視しない、という、今となっては特に目新しいわけではないアプローチを、どう設定するかが非常に大切になってくると思います。西欧近代法の強力なところは、誤解の余地が非常に少ないこと。とても小さな費用でお互いの手の内を読み合えるような仕組みを作り上げていました。そして日本の場合、1880年代半ばに漸く鉄道会社も紡績企業も誕生するんですが、紡績業はその40年後にはイギリスに肩を並べ、50年後には世界最大の綿製品の生産国になっている。鉄道に関しては、日本の鉄道の主要部分は国有化される前の民鉄が造ったわけですが、株で金儲けしたい普通の人たちのお金を集めて、1880年代から約20年でいまのJRの幹線網はできあがってしまう。
 明治維新後のその短期間の達成をすごいとも言えるし、でもその一方で、それ以前の日本社会では異なる集団同士がコミュニケーションをとる際にとても不便な、非効率な社会で、それが明治維新後に改善されたために劇的な発展が起こったという側面もあった。江戸時代の職人や侍、村単位の集団にはさまざまなルールがあり、例えば村の内部には、非常に低費用で、コミュニケーションをとれる認知の枠組み、濃密な空間があるんですけれども、それを超えると途端にコミュニケーションに費用が増加する。それをどう解決するかという問題を江戸時代の日本は抱えていました。
 あるいはもっと遡ると、江戸時代のとりわけ前半期は前近代社会としては顕著な経済成長を遂げているわけですね。なぜそれが可能だったかというと、やはり一つには、農産物を広く全国に向けて売ることができる市場がそこに生まれてきたということがあるわけです。市場が広がることで、遠くの人とコミュニケーションできるようになったのは、それまで侍たちが侍同士の慣習法として作っていたものを標準化して、なるべく同じ基準を適用する裁判所を作って、違う村、違う社会集団に属する人がさほど手間暇かけなくても取引できるようになったという事情があったわけですよね。それがあったればこそ、ある種残酷にそれを妨害する中間団体は、とりわけ戦国末期から近世初期に関しては織田信長みたいな人にある種、残酷に破壊、解体されてきたわけです。その後、しばしの停滞を経て、明治維新後に西欧近代法を導入して、さらに開かれたコミュニケーションの上に成り立つ開かれた社会が作られて、急激な工業化が短期間に達成されたそのとことん行き着いた先に、アングロ・サクソン的なコーポレートガバナンスの在り方があると思います。
 私以外のスピーカーは基本的にはいまの視点から、アングロ・サクソン的な仕組みを相対化する現在の視点から振り返って、単一の認識の枠組みや信念の体系ではなくて、侍には侍の、イスラム社会にはイスラム社会の、中国には中国の、さまざまな認識の枠組みがあるということを強調されるだろうと予想していました。それはそれで、今の瞬間を相対化するには大切な視点なのだけれども一方、非西欧社会も長期的には、より開かれた認知の枠組みに支えられたより開かれた指標を作ることによって成長する、という歴史を共有しているということを誰かが言ったほうが、議論しやすいかなと思って、私自身は1人だけ、マーケットだ、第三者執行だ、司法制度だということを強調したんです。その上で、いろいろな見方があり得るということが聴衆にも届いたらいいかなと思ったんです。理想的にはたとえば、近代主義を振りかざす私と、江戸時代の社会固有の価値を重視する池上先生がもっと議論できれば、長期の見通しの上に可能的な認知の枠組みを比較する、という視点も提供できたかもしれないと思っています。
 
―――さて、そこから第三部へと入っていくわけですが、ここでもまたモデレータの鶴さんが、事前に相当調整されたのではないかという印象を受けているんですが。少し振り返っていただけますか。
 
 そうですね、中身の話はちょっと置いて。VCASIには若手から大御所までいろいろなバックグラウンドを持つ研究者がいて、第三部のパネリストはその分野においてはトップクラスの正に大御所の方ばかりでした。今回のようなフォーラムは、コンサートなどのライブ演奏に非常に似ているなぁと強く感じたんですね。実際にはさまざまな分野ですでにご研究をやられている相当の実力者たちが、あの同じ空間に集まってお互いにインスピレーションを感じながら、それはまさに認知の世界だと思うんですけれども、そういう中で本人がまったく予想していなかった展開が出てきるといった意外性の面白さが生み出される場というのは必要なのかなぁと。
 ですから準備は、音楽に例えれば、このキーで、こういう雰囲気でと、予めある程度設定しておくと、その楽器の担当者たちがいろいろ考えるわけですよね。じゃあ、自分はどう演奏しようかと。そこでつくづく効いてくるのは、青木さんのフレームワークです。あの場にいた人たちは昔から、その教えを学んで各分野で発展させてきた方々ばかりなのでそこはスムーズに進めることができました。
 
 さて、中身の話に移ります。二つあります。
 まず、青木先生の議論は非常に一貫性があって、70年代、80年代から企業を単なるプリンシパル・エージェント、ということではなく捉える。情報システムやバーゲニングといった異なる観点から研究をやられています。また、制度についてもそれは心の中にあるのではないかという非常に本質的な部分を指摘されていたんですが、やっと認知科学や社会科学の人たちが、最近それらを採り入れながらその意味を解明し始めたところです。そんな状況下で、青き先生自身は再びコーポレーションという、ある意味で先生の原点に戻られて、さらに螺旋状に上がりながら問題を深めていらっしゃる姿が、我々には示唆深いですし、現実社会で分析、研究をやっている人たちが、またそこにインスピレーションを得ることによって活発な議論をすることができました。
 
 ただ、二番目の話としては、提起された問題はものすごく重いということです。資本主義は非常に多様化しているのですが、単にAモデル、Jモデルだけではなく、そこからさらにさまざまなパターンができている。例えば同じ労働者でも、正規、非正規雇用では異なるし、株主も、かつてのメインバンクのような存在の株主から、純粋に利益を追求する株主もいる。しかもその関係が以前より複雑化している。そのような環境に適応しながら、企業としてのパフォーマンスを上げていくにはどうしたらいいか。こうした難しい問題から逃げずに、きちっと真剣に向き合って考えてみたらどうでしょうかという、大きな宿題をいただいてしまったと思っています。そういう二つの感慨を持ちながら、いろいろ考えているところです。