『もっとも美しい数学 ゲーム理論』
トム・ジーグフリード著・冨永 星訳
文藝春秋社・2008年
本書は、経済学の始祖アダム・スミスから説き始めて、ゲーム理論の生みの親フォン・ノイマン、そしてジョン・ナッシュへと発展していくゲーム理論の歴史を丹念に追っていき、行動ゲーム理論、さらにはネットワーク理論や複雑系、経済物理学や社会物理学にまで説き及ぶ壮大構想を下に書かれている。そのキーワードは心理歴史学、統計力学、そして混合戦略である。
個々の人間の行動は予測がつかないかもしれないが、社会全体の法則性は、平均として統計的に把握できるとするケトレーの社会科学における業績が、やがてマクスウェルの統計力学へと受け継がれていく。こうして始まった統計的方法が、自然科学の発展をもたらし、再びその統計力学が、スモールワールド・ネットワークやスケールフリー・ネットワークといった考え方を通じて、経済物理学、社会物理学といった形で、再び社会科学に逆輸入されていく様子が丹念に追跡されている。
トム・ジーグフリード
歴史の運動法則を明らかにするには、マルクスに従えば、社会の下部構造である経済を研究することが必要である。マルクスを通じて経済学に関心をもった私にとって、アイザック・アシモフの『ファウンデーション(銀河帝国の興亡)』シリーズに登場するハリ・セルダン博士と彼が発明した銀河の歴史と未来を解き明かす心理歴史学は、中学生時代からの憧れ的であった。
本書でジーグフリードは、経済学の始祖アダム・スミスから説き始めて、ゲーム理論の生みの親フォン・ノイマン、そしてジョン・ナッシュへと発展していく歴史を丹念に追い、社会全体の法則を把握する手法としての統計学が自然科学の発展をもたらし、さらにスモールワールド・ネットワークやスケールフリー・ネットワークといった考え方を通じて、経済物理学や社会物理学など社会科学に逆輸入されていく様子を丹念に追跡しているが、これはまさしく、統計力学に着想を得て心理歴史学を構想したアイザック・アシモフが夢見た未来でもある。
本書で紹介されている経済物理学や社会物理学は、金融論や空間経済学をはじめとしたいくつかの専門分野で重要な貢献をするかもしれないが、経済学の主流になる方法論なのかについては、私は確信を持てない。それは、一時期一斉を風靡した複雑系の経済学が、今はそれほど注目されていないことにも原因がある。
しかし、本書前半に描かれたゲーム理論に関する記述は、コーリン・キャメラーを中心とする行動経済学者や進化ゲーム理論家に対するインタビューに基づいており、(一部の著者による論理の飛躍を除いて)概ね信頼のできるものである。
アダム・スミスの『国富論』に描かれた利己心に基づく世界と、『道徳感情論』に描かれた同感に基づく利他性の世界は、互いに和解されうるのか否かという問題は、学説史家によって「アダム・スミス問題」と呼ばれている。伝統的な経済学ではもっぱら『国富論』のアダム・スミスのみに注目されてきた。一方、利己的で合理的なプレーヤーを想定する伝統的なゲーム理論から人間の利他性を考慮する理論を発展させている行動ゲーム理論は、『道徳感情論』のアダム・スミスがその先駆者であって、その着想が最近になって再発見されたと指摘するのは行動経済学者コーリン・キャメラーである。アダム・スミスの思想発展の詳しい文献考証については、わが国にも国際的な専門家が多くいるので割愛するが、一人の思想家の思想や世界観が二つの主要著作の間で断絶していると考えるのには無理があろう。すると、『道徳感情論』をも視野に入れている行動経済学こそが、アダム・スミスの正統的な後継者ではなかろうかという指摘は、学説史的にも興味深いと思われる。
ただ、利己心に従う参加者のもとでも神の見えざる手に導かれて市場は効率的になるというアダム・スミスの観察(後に厚生経済学の基本定理として証明される)が、ダーウィンの『種の起源』における生物進化と自然淘汰の思想に影響を与えているというくだりにはやや疑問がある。というのは、ダーウィン自身が同書で触れているように、彼が自然淘汰の着想を得たのはマルサスの『人口の原理』を読んだからであり、この辺りはやや調査不足と言わざるを得ない。
フォン・ノイマンがゼロ和ゲームにおけるミニマックス定理を証明してから、本格的なゲーム理論の歴史は始まる。古典的なクーンの論文「展開形ゲームと情報の問題」(1953)では、ツェルメロ=フォン・ノイマンの定理として紹介されている。だが実は、ツェルメロの論文自体はミニマックス定理の証明どころか、その問題そのものが扱われていない。ツェルメロが研究したのはチェスなどのゲームで必勝局面に達した後、最大どれだけの手数が勝利に必要かという問題である。ところが、いつのまにかツェルメロがミニマックス定理の先駆者に祭り上げられてしまった。近年こうしたゲーム理論史の文献考証がきちんと行なわれ、専門誌にも発表されて私も大いに注目していたが、一般の人々の目に触れる形で紹介されたのは本書が初めてであろう。この部分の調査の綿密さには感心させられる。欲を言えば、エミール・ボレルにも言及されているので、クールノーについてもゲーム理論研究の先駆者としての紹介が望まれたところではある。
ジョン・ナッシュによって生み出された非協力ゲームにおけるナッシュ均衡については、やや扱いが簡単で、すぐに著者は進化ゲームへと話題を移している。それは著者の関心が、一方で人間社会を対象としたゲーム理論が生物進化の問題へと適用範囲を拡張していき、やがては諸科学の統一的な記述言語としての地位を築いていくであろうという壮大な構想を示すためだからである。実際、物理学において、量子ゲームという形でゲーム理論が量子力学と結びついている様子も第10章で描かれている。
他方、実験室実験において、囚人のジレンマや公共財供給ゲームにおける均衡からの逸脱が観察されるが、これらを説明するにあたっては、有名なアクセルロッドによるコンピュータ・トーナメントやノワックらの間接互恵性の研究を紹介しながら、人間行動の多様性、あるいは混合戦略が鍵なのだとしている。つまり、人間には利己的な人もいれば、互恵的な人、純粋に利他的な人などもいて、その行動には多様性があり、多様な行動が共存していることこそが、社会の現実であり、またそれが混合戦略の意味なのであると説明する。それは、生物進化において多様な種が共存するのと同様である。また、統計力学が描き出す物理的世界もしかりである。こうして混合戦略をキーワードに、ゲーム理論、統計力学、進化生物学が描く世界のビジョンに、ある統一性があることが確認される。
以上のように、行動の多様性を強調する著者からの進化心理学に対する評価は手厳しい。脳には狩猟採集時代の環境の下で進化的に獲得した「裏切り者を探せ」モジュールがあり、これが現代人の認知や行動を規定していると考える進化心理学に対し、2つの反論を加えている。まず第1に、脳の可塑性への言及である。脳は進化的に獲得された能力にとどまることなく、経験を通じて常に変化する。だから人間行動は狩猟採集時代に獲得した能力によって左右される面も多いが、脳の可塑性を考慮すればそれだけで説明するわけにはいかないという批判である。
もう一つは、人間行動の文化的多様性である。進化心理学には、心理学における素朴な普遍主義の傾向性がある。つまり、人間の心には、いかなる時代・社会においても普遍的な法則があるという考えである。これに対して、ヘンリッヒやキャメラーによって15の文化圏で行なわれた最後通牒ゲームや公共財ゲームの実験で見られる著しい文化的差異を紹介し、いかなる時代・社会においても成り立つ普遍的な心理法則を想定することが誤りであることが批判されている。
人間は、決してただ一つの市場や関係においてのみ参加しているのではなく、同時に複数の関係性の中に参加している。つまり、青木昌彦の言う政治、経済、文化などの多様なドメインにまたがる「結合されたゲーム」を人間はプレーしている。当然こうした状況では、人間はその限られた認知資源を複数のドメインに振り分けなければならず、各人が重点を置くドメインも異なっているだろうから、個別ドメインに着目すれば、人間行動は限定合理的だと考えざるをえない。こうしたことが、人間行動の多様性を生み出すのであろう。このビジョンの多くの前提に同意しつつも、多様性がもたらすプレーヤーの「温度」を統計力学的な手法で解明するゲーム力学が、著者の言うように社会科学と自然科学を統合した統一理論になりえるかについては、まだ何とも言えないというのが正直な感想である。
しかし、ゲーム理論の歴史、行動ゲーム理論や進化ゲームの最近の発展に良く目配りをし、そこに複雑系理論的な壮大なビジョンを取り入れた刺激的な本である。一読をお勧めしたい。