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「『情報の経済学』と金融危機」(VCASIフェロー・慶応義塾大学教授 池尾和人)(後半)

 先週から引き続きVCASIフェロー池尾和人氏による日経新聞での連載「『情報の経済学』と金融危機」の後半を掲載します。

第一回~第四回
第五回~第八回

[5] 資産価格のバブル

 通常時には、ある資産の市場価格がそのファンダメンタル価値(当該の資産を保有していたときに得られる収入の現在価値の総額)を下回っているならば、得られる収入より少ない費用で手に入れられるということであるから、買いの注文が入るはずである。他方、市場価格がファンダメンタル価値を下回っているならば、逆の理由で売りの注文が入るはずである。それゆえ、市場価格をファンダメンタル価値に回帰させるような(均衡回復的な)力が作用することになる。
 ところが、金融危機の場合には、今回もそうであったように、危機に先立って資産価格がそのファンダメンタル価値から上方に乖離(かいり)する動きが一定期間持続し、その後は、一転して資産価格がそのファンダメンタル価値を下回るとみられる水準にまで下落するという不均衡の累積過程が生じる。
 こうした資産価格のファンダメンタル価値からの乖離は、なぜ生じ、なぜ(少なくともしばらくの間は)持続するのであろうか。
 まず、いわゆるバブルといわれるような上方乖離がなぜ起き得るのかについて考えてみる。ファンダメンタル価値よりも割高な価格で資産を購入するというのは、損なことであるから、自己資産で投資をしている場合には行おうとはしないはずである。ところが、他人から資金を預かって運用しているファンドマネージャーの場合には、一種のモラルハザード的行動として、割高な価格で資産を購入することがあり得る。
 ファンドマネージャーが運用に成功し、例えば10億円儲(もう)けたならば、そのうち2億円を報酬として受け取れるとしよう。しかし、そうであっても、10億円の損を出したからといって、ファンドマネージャーが2億円の補てんをするわけではない。せいぜい解雇されるくらいである。すなわち、ファンドマネージャーは、損失の大半を出資者に押しつけられる余地をもっている。
 こうした余地は、ファンドマネージャーにとっては資産購入にあたって補助金を与えられているのと同等の効果をもつ。したがって、その補助金相当額の分までは、資産価格がファンダメンタル価値を上回っていても購入することが合理的になる。
 出資者とファンドマネージャーの間に情報の非対称性が存在し、前者には後者の行動がよく分からないとすれば、この種のファンドマネージャーのモラルハザード的行動を出資者が抑制することは難しい。

[6] 裁定行動の限界

 儲(もう)かれば自分のものになるが、損が出たときには、その大半は出資者に押しつけることができて、自分自身の負担にはならない。それゆえ、あるファンドマネジャーがファンダメンタル価値よりも割高な価格で資産取得を行うような行動をとったとしよう。
 このとき、他のマネジャーにとっては、資産を高い価格で売りつけて鞘(さや)をとって稼ぐチャンスを得ることになるのではないか。そして、こうした鞘とりの行動を他のマネジャーたちが盛んに行えば、結局、売りに押されて資産価格はファンダメンタル価値に回帰することになるはずである。
 この意味で、ファンダメンタル価格から乖離(かいり)した価格が持続し得るためには、その乖離を利用して鞘を得ようとする他のマネジャーの裁定行動が不十分にしか行われないことを示さなければならない。
 バブルが発生している状況において、資産価格が割高になっていることが分かっていても、その崩壊に儲ける行動をとることは、決して無リスクではない。割高になっている資産を空売りして、資産価格が正常化した時点で買い戻せば、莫大(ばくだい)な利益が上げられることが分かっていても、いつバブルが崩壊し、資産価格が正常化するかは不確かだからである。
 空売りを行うためには、その資産を保有している者から資産を借り受ける必要があり、担保資産の手当てが必要になる。バブルの規模が大きいければ大きいほど、市場の体勢に逆らってバブルの崩壊まで持ちこたえなければならないので、長時間にわたって巨額の資金を調達できる能力をもっていないと、実際には裁定行動に立ち上がれない。
 しかも、出資者によってファンドマネジャーもモラルハザードを防ぐために課されている条件が、裁定行動をとりにくくする制約になっている面がある。例えば、ファンドマネジャーの業績は定期的に相対評価されるのが一般的である。
 そうした場合に、ライバルのマネジャーはバブルの継続に賭ける行動をとっているにもかかわらず、自分だけがバブルの崩壊に儲ける行動をとって、次の評価時点までにバブルが崩壊しなければ、勝負に負けて極めて低い評価を受けるリスクが生じる。このリスクの存在は、バブルと分かっていても「パーティーで音楽が鳴っている間はダンスをやめられない」という状況にファンドマネジャーを追い込むことになりがちである。

[7] 取り付けのメカニズム

 経済に加わった負のショックを増幅し、システム危機にまで至らしめるメカニズムとして、昔からよく知られている代表例は、「取り付け」のメカニズムである。
 景気悪化や資産価格の下落といったショックが発生した結果、少数の銀行が経営困難に陥ったとしよう。そのことを預金者が察知すると、当然、自分の預金が危うくなる前に預金の払い戻しを求めることになる。ところが、こうした預金の払い戻しの請求が、問題銀行に対してだけ行われるとは限らない。個々の銀行の経営状態の詳細は預金者には分からないという情報の非対称性が存在することから、問題銀行以外の銀行に対しても、預金の払い戻しが求められることになりやすい(一種の逆選択)。
 銀行は「短期で借りて長期で貸す」ことを業務としているので、その保有資産は非流動的で、その本来の価値どおりに換金するには時間を要する。換言すると、即座に換金しようとすると、「投げ売り価格」(英語では、ファイヤーセールプライスという)でしか処分できず、損失が出ることになる。
 そのために、本来は経営に問題のなかった銀行であっても、一定割合以上の預金の払い戻しを求められると、それに応じるための保有資産の処分に伴う損失で経営破綻に至る可能性が生じる。そうである以上、一定以上の預金者が預金払い戻しを請求するような行動をとると、他の残りの預金者にとっても預金の払い戻しを求めることが合理的行動になってしまう。
 こうして銀行に対する取り付けが一斉に発生すると、当初経営に問題のなかった銀行まで破綻に追い込まれる結果になる。この意味で、取り付けは当初の負のショックを増幅し、システム危機をもたらすものである。
 今回の米国の金融危機においても、ヘッジファンドや投資銀行傘下の投資専門会社は、負債依存度(レバレッジ)が高いだけでなく、短期の資金調達の繰り返しで長期の投資をまかなっていたという点で、銀行と類似の財務構造になっていた。それゆえ、投資家が解約を求めたり、資金提供の更新に応じない行動をとったりすると、ファイヤーセールプライスで保有資産を処分するしかなく、いたずらに損失を拡大させていった。
 そのために、最終的には銀行取り付けと同様の事態に見舞われることになって、その多くが破綻状態に追い込まれ、金融危機への拡大を引き起こすことになった。

[8] 流動性のスパイラル

 今回の米国の金融危機では、銀行取り付けと同様の事態が起きたのと同時に、それとは別の増幅メカニズムも作動したとみられている。それは、市場流動性の消滅に至る「流動性のスパイラル」のメカニズムである。
 市場流動性とは、取引の実行しやすさのことを意味している。すなわち、取引相手がすぐに見つかって、いつでも当該の財とか資産を売ったり買ったりすることが、市場価格にさしたる影響を与えることなく可能であれば、その市場は流動性に富んでいるといわれる。逆に取引相手を見つけるのが難しかったり、小規模な売り、または買いの注文を出しただけで、市場価格がおおきく変動したりする市場は、非流動的であるといわれる。
 こうした市場流動性は、最終的な投資家と発行体の存在だけで確保できるものではない。実際にはそれは、裁定や投機を主たる取引動機とするトレーダーの存在があってはじめて十分に提供されるものである。
 何らかのショックによって、ある資産の市場価格がそのファンダメンタル価値から下方に乖離(かいり)した場合には、通常であればトレーダーは即座に買い注文を出すことによって、市場流動性を提供する。
 しかし、当初の資産価格の下落があまりに大きいものであると、それによってトレーダーは著しい損失を被り、買い注文を出す余裕を失うだけではとどまらず、資金調達のために保有資産の売却を強いられることになる場合がある。そうしたトレーダーの行動は、資産価格の一層の下落をもたらすとともに、トレーダーの活動がますます不活発になることから、市場流動性の減少につながる。
 こうした悪循環が「流動性のスパイラル」と呼ばれるものである。今回、米国の多くの資産市場において、このメカニズムが作用し、そのほとんどが機能停止状態に陥ることになって、金融危機が深刻化した。
 このメカニズムの背後にも、情報の非対称性が存在している。相手方の信用度がよく分からない、あるいはモラルハザード的行動をとられるかもしれないというカウンターパーティー(相手方)リスクを緩和するには、担保の差し入れ等が必要になる。しかし、トレーダーの財務状況が悪化するほど、担保の差し入れ等をトレーダーに求める必要性は増大していくということが、悪循環を引き起こす大きな原因となっている。