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つながる脳の研究で、社会的ルール生成のメカニズムを捉える

つながる脳の研究で、
社会的ルール生成のメカニズムを捉える


『つながる脳』 
藤井直敬著  NTT出版(2009).
 

評者:瀧澤弘和(VCASIフェロー、中央大学准教授)

『つながる脳』
藤井直敬著
NTT出版、2008年

藤井直敬『つながる脳』

 経済学、社会学、心理学などの社会科学系・人間科学系の学問は近年の認知科学や神経科学の発展の影響を受けて急速に変化しつつある一方で、ここ数年の脳科学研究は研究者の間に一種の閉塞感が広がっているという。本書は、こうした閉塞感のただ中で壁を突破しようと果敢に限界に挑みつつある気鋭の研究者による研究の中間報告である。

第一章は現在脳科学が直面する壁を、(1)技術の壁、(2)スケールの壁、(3)こころの壁、(4)社会の壁に整理して説明している。第二章では、現在の脳科学の閉塞感を生み出している上記の壁を突破するために、2頭のサルを用いた実験報告が記されている。第三章で壁を壊す4つの試みを紹介、第四章では、すべての環境変数を制御することができる仮想空間を用いて、ヒトが他者にココロを感じるメカニズムを解明するアイディアと研究の方向性が説明されている。第五章では、著者のブレイン-マシン・インターフェイスに対する関心のありかと、進行中の研究の説明があり、最後の第六章で脳と社会の関係を論じている。

藤井直敬(ふじい・なおたか)

VCASIフェロー、理化学研究所・脳科学総合研究センター適応知性研究チーム所属(チームリーダー)

既存の脳科学研究が直面する壁

  第1章では現在脳科学が直面する4つの壁があげられている。

 「技術の壁」では著者は、従来のような限定された環境条件下での研究は、適応的な脳機能の発現を抑制したうえでそれを計測するというジレンマに陥っていると主張する。非定常的な脳を非定常的なものとして観察、解析する技術が必要なのである。本来脳は複雑なネットワークであって、社会的脳機能の分析には、脳機能をネットワークレベルで分析することが必要であると主張している。

 「スケールの壁」では、脳科学がこれまで扱ってきた神経細胞活動に関する情報量がきわめて限られていたと述べられる。著者は、そこには拘束の強い実験環境が影響を及ぼしている可能性が高いと指摘し、脳内部の様々な部位の関係性を把握するための新しい記録解析手法、LFP(Local Field Potential)に可能性を見出している。 

2頭のサルを用いた社会的脳機能の実験

 第2章では、社会的脳機能を研究するために2頭のサルを用いた実験報告を行っている。サル同士の社会的関係性はサル任せにする一方で、サルがある程度自由に振る舞えるような環境を構築し、その振る舞いと環境情報のすべてを記録して脳活動と関連づけるという内容である。

 まず2頭のサルを向い合わせに座らせ、いずれからも手が届く中央にリンゴを置くと両者の間に安定的な上下関係が成立することが観察された。そこでさらに、互いに競合関係となるような相対位置に変えて行動と神経細胞活動との関係を調べると、上位に立ったサルの前頭前野の神経活動が上昇する一方で、下位のサルのそれは低下することが観察された。また、頭頂葉の観察から2頭のサルは競合関係(すなわち社会的関係)に応じて、自分の身体空間の認知を変化させていることが確認された。

 著者は、サルたちが社会性のない状態(デフォルト)では強いサルとして振舞い、社会性を持った弱いサルに変わるとき(下位の立場に置かれるとき)に行動の抑制という脳機能が発現することから、社会性の根本には「抑制」があるのではないかと推測している。社会的抑制はサルとヒトに共通して見られることから、進化的に見ても、抑制は協調などよりも先に存在した社会的機能であったろうとしている。

 この実験は、脳というそれ自身がきわめて複雑で可塑的なネットワークが相互作用し、脳がパターン化し秩序づけられるプロセスを通して,社会のルールや秩序が形成されることを示していると解釈できるのではないだろうか。このプロセスで、何かしら秩序のようなものが表象されるとするならば、それは各人(各個体)にとってのいわば仮想的な適応環境として立ち現れる。

 この論点はヒトの協調行動を説明する、ゲーム理論家と意思決定理論家や哲学者との間の論争にもかかわっている。ギンタスは近著Bounds of Reasonで、人間の協調行動を「チーム的推論」や「集団的志向性」で説明しようとするバカラックやサグデン、サールらのアプローチを批判、ゲーム的状況におかれた人間が均衡をプレーする場合に必要な「共通知識」が「文化と遺伝子の共進化」によって形成されてきたと主張している。本書で説明されている2頭のサルによるプリミティブな社会ルールの発生論理は、このどちらとも異なり、社会のルールが共通知識になっていくプロセスが、つながる脳の同調的なパターン化とそれに結び付いた表象の形成に関連していることを示唆している。

  第3章で紹介されている現在進行形の取組みのうち、特に評者の興味を引いたのは、社会的要素を組み込んだ意思決定メカニズムの解明である。明確な上下関係がある2頭のサルのうち、下位のサルにリンゴなどの好物を渡すと最初は受け取って口に運ぼうとするが、上位のサルに取り上げられてしまう。それでも下位のサルにエサを渡し続けても受け取らなくなり、無理矢理手の中に押し込めると、迷惑そうな顔をしてエサをポイッと捨ててしまうという。これは通常の報酬/罰則課題では出てこない状況である。現在著者らは、情動と感情のメカニズムの解明と意思決定メカニズムの解明を結びつけ、情動から意思決定に至るまでのシステムを網羅的に観察しようとしているという。

 第4章では、すべての環境変数を制御できる仮想空間を用いて、ヒトが他者にココロを感じるメカニズムを解明するアイディアと研究の方向性が説明されている。第5章では、著者のブレイン-マシン・インターフェイス(BMI)への関心と、進行中の研究について説明している。われわれの脳は進化のある段階から、単純に物質に還元できない「情報」という不思議な存在に依存するようになったが、今まで脳内の「情報」をターゲットとした研究を行ってこなかった。しかし、ヒトに特有な高次の認知機能の仕組みを理解するには、脳内情報の操作が有力なアプローチであり、その可能性を与えるBMI技術の広がりについて述べている。

新たに浮かび上がってきた人間観・社会観

   本書はその他いたるところに社会的脳機能について考え抜いてきた著者が、その独自の観点から獲得してきた深い洞察がちりばめられている。

 第6章で、著者は社会的脳機能に障害を負った人の症例をあげ、ヒトには他者とポジティブな関係を構築し、維持したいという関係性欲求があるとの見方を示している。さらに最近、生理学研究所の定藤規弘氏のグループがfMRI実験でヒトの金銭的報酬への反応と社会的報酬への反応が共通の神経メカニズムに支えられていることを発見したことを紹介しながら、行動を動機づけるうえで、ホメという社会的報酬が経済的・金銭的報酬と同程度に重要であると主張している。こうした洞察は、主として金銭的インセンティブにのみ反応する人間観に基づいてきた従来の経済学の狭さを示すとともに、人間が取り結ぶ社会的関係(他者に対するリスペクト)に十分配慮した社会を目指さなければならないことを強く示唆している。

 この点は、VCASI主宰の青木昌彦氏が提起する「連結されたゲーム」というアイディアとも関連している。人間はその社会的認知のあり方によって、取引ドメイン、社会交換ドメイン、政治的ドメインなどを成立させており、これらのドメインでは一見して同じに見える行動でも異なる仕方で利得を付与している。青木氏は現実の多くの制度がこうした異なるドメインを超えた「連結されたゲーム」の均衡プレーとして説明できるとした(『比較制度分析に向けて』や来春Oxford University Pressから出版予定のCorporations in Evolving Diversityを参照されたい)。

 著者が、人間の利他行動を遺伝的適応度の観点から説明する立場に疑問を呈していることも興味深い。「僕たちは進化のある時点から環境による淘汰から外れたのだと思います」とまで言っている。

 「つながる脳」を通してヒトがヒトとの社会的関係を構築していく中で、適応すべき仮想的環境それ自体を構成してきたのであり、ヒトのココロはその仮想的環境と共進化してきたのだと言いたいのだろう。人間の心理を素朴に外的環境への適応の結果として説明しようとする進化論的アプローチのナイーブさに気付かされる(同評者による『心は遺伝子の論理で決まるのか』の書評をも参照されたい)。

 著者はヒトが「自己内部の情報を外部装置に移すという、いわゆる情報の外部化を始め」たことで「個人の知識レベルを超えた知識の伝搬と蓄積が可能になった」と指摘している。この見方は、ヒトのココロのありかを「脳-身体-環境」のインタラクションを通した情報処理に見出そうとするアンディ・クラークらによる「拡張した心」アプローチに近い。しかし、このアプローチが脳の情報処理のありかを「身体」や「環境」という脳外部との関係で捉えようとするのに対して、著者の立場はヒトが脳の内部に仮想的に情報処理の環境を創り出し、それを足場としていることを強調する点がユニークであるといえよう。

以上、本書の記述には一つ一つの難問を考え抜いて解決していくプロセスが活写されており、著者の科学研究に賭けるすさまじい迫力が伝わってくる。■

 

※VCASIでは、2009年12月頃に脳科学に関するセミナーの開催を予定しています。詳細は、近日中にVCASIのホームページに掲載しますのでご確認ください。