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VCASIコラム『法整備支援と立法学の可能性』(VCASIフェロー・名古屋大学大学院准教授 大屋雄裕)

法整備支援と立法学の可能性

大屋雄裕 : 大学院法学研究科・大学院国際開発研究科准教授 VCASIフェロー

 明治時代、我が国で初めて制定された近代的民法がフランス人顧問ボワソナード(1825-1910)によって起草されたものであることは、多くの人が知っているだろう。では、現在のベトナムとカンボジアの民法が日本の支援によって成立したものであることは、どのくらい知られているだろうか。

 1991年のソ連崩壊を契機として、特に旧東側に属する諸国は相次いで民主化と市場経済の導入を目指すようになった(もちろん、そのどちらを重視するかは国ごとに温度差がある)。だが、WTOを典型とする世界経済体制への参入と経済発展を狙う彼らが直面したのは、市場経済の基礎となるさまざまな要素が彼らの従来の国制には欠けているという事態であった。たとえば外国企業に投資を求めようとしても、土地所有権も、公正でアクセス可能な裁判制度も十分には発達していない。弁護士を含む法律家の数も不足している。このような状況を改善し、体制移行国の経済発展と人権保障を実現するために、先進国が法制度と法執行体制の整備に向けた支援を積極的に進めるようになった。この取り組みを「法整備支援」と呼んでいる。主要なドナーとしてはドイツやオランダ、スウェーデンのような国々、世界銀行やアジア開発銀行、国連開発計画のような国際機関が知られているが、アジアを代表する先進国として我が国は、先に挙げた二国を重点的な支援先として取り組んだと言えるだろう。明治以来欧米の法制を輸入する側であった我が国が、これを契機に輸出側への転換を遂げたということになる。

 だがこれによって皮肉なことに、立法の正当性をどのように証明していくかという課題の存在も明らかになった。支援対象国はそれぞれ、異なった社会制度や伝統、経済的な状況に直面している。家族制度や宗教もさまざまなら、経済的に一定の発展を遂げている旧ソ連構成国もあれば、虐殺と内戦の痛手に未だ苦しめられている国もある。そういった個別の事情を考慮せずに一律のモデル法を強制するような一部の国際機関に見られる支援のあり方は望ましくない。ボワソナード民法をめぐる論争の末に我が国が選択したように、外来のモデルに拠りながらもそれぞれの社会にあわせた立法の実現を、当事者が主体となって構築すべきだというのが、おそらくこの分野に関係する日本の専門家の多くに共有されている感覚だろう。実際、我が国による対カンボジア支援などは、現地のオーナーシップを重視したものとして、相手方からも高く評価されている。

 問題は、そのような立法を誰が実現するのか、そのやり方が望ましいということを他の支援実施国や国際機関に対してどのように主張していくのかということである。明治日本の場合、当時の先進国へ送られた留学生たちが、その成果を生かして立法を実現していった。明治民法はドイツ法の形式に拠りながらもフランス法やイギリス法の影響を受けており、それら各国の制度をいわば取捨選択することで形成されていったことが、すでにさまざまな研究によって指摘されている。

 だが現在の発展途上国の多くでは、そもそも立法作業にあたる能力を持つ人的資源そのものが不足している。筆者の勤務する名古屋大学なども、この状況を改善するために留学生受け入れには積極的に貢献しているが、成果が現れるには今後十年、あるいは数十年を要するかもしれない。その一方で彼らの経済状況は切迫しているし、人権保障と「法の支配」を構築することも緊急に求められている。少なくとも当面は海外からの支援に頼った法整備を進めるしかないのだが、しかし支援を実施する側にもそれぞれの思惑があり、異なった信念もある。支援実施機関同士の意見が対立したり、個々に進めていた法整備の内容が相互に矛盾をきたすこともある(たとえばカンボジアでは日本支援による民法とアジア開発銀行支援の土地法が矛盾し、両支援機関の対立を招いた)。そのようなとき、何が個々の国にふさわしい法制度なのか、何が当事者の求めるものなのかを、いかに決めればよいだろうか。

 当事者に尋ねればよい、カンボジアの法制度をどうするかはカンボジア人の意見で決めればよい、と簡単にはいえない。そもそも、可能性のある選択肢とその帰結を評価し、自己の価値基準に照らした望ましさに基づいて意思決定をする、という意味での自己決定能力が途上国には十分に存在しないために、法整備支援という外部からの助力が必要なのだ。被支援国単独の自己決定能力は期待できず、支援機関も相互に矛盾・対立する利害や信念を抱いている。起き得る問題を解決していくには、特定国家の歴史や文化・国制に依存せず、さまざまな状況での「望ましい法制度のあり方」を導く理論が必要とされるのである。

 問題は、従来の日本の法律学がこの点を十分に追究してきたとは言えないことにある。明治の我々の出発点はまさに現在の体制移行国に等しいものであり、不平等条約の改正という当時最大の課題を解決するにあたっての法整備は、とにかくまず当時の先進国の国制を真似とることと、その結果「文明」の一員として認められることを目指していた。そのとき、先進国の制度はその達成されるべき目標として一定の正当性を与えられたのであり、それが本当に当時の日本社会やその後の発展に適しているかという検討を十分に行なう余地は残されていなかった。戦後の出発点もまた、平和で文化的な民主主義国家の構築という、既にあった目標の模倣に置かれていた。そのなかで法律学も、既存の法文の解釈という側面に重点を置いて発達し、立法目的に照らしてどのような制度設計を行なうのが望ましいかを考える立法論的な側面は重視されてこなかった。立法とは欧米諸国の既存の制度から適当なものを選んで組み合わせる作業である、という考え方が存在しなかったとは――最近の法科大学院制度や裁判員制度成立に至る過程を見ても――言えないだろう。朝鮮・台湾など旧植民地への法制度の輸出国という戦前日本の一側面が、戦後の歴史から切り離され封印されたことも、このような忘却の背景として指摘できるかもしれない。

 だが時代は移り、特に知的財産法制などの先端的な分野においては、日本も欧米と並ぶ法整備の震源地として機能することが期待されている。かつて日本が理想としてきた欧米諸国も、グローバライゼーションや社会の多元化・多文化化という新しい現実のなかで、進むべき方向を模索しているのが現状だ。もはや我々が模倣すべき姿は存在せず、それどころか我々自身が参照されるべき一つの像を示すことが、特にアジアの体制転換国から求められている。我々自身が、立法の目標と社会の状況という変数のもとで、あるべき将来の社会とそれを実現するための法制度のあり方を検討していく理論を切り拓いていかなくてはならないのである。

 もちろんこのような認識は日本のみならず、ヨーロッパ諸国などでも共有されるようになってきており、「立法学」を主なテーマとして取り扱う国際学術誌(Legisprudence: International Journal for the Study of Legislation, Hart Publishing. 従来の「法哲学」jurisprudenceが語義的には「司法の」juris-「賢慮」prudenceであり、立法という要素が抜け落ちていたことへの問題意識が、この題名には籠められている)も発行されるようになった。法整備支援という発展途上国向けの貢献が逆に照らし出すようになった我々の課題に応えていくためには、おそらくは従来の法律学の再検討と再編だけではなく、この課題を経済学や歴史学といった諸科学の成果と連携し、結びつけていくことが必要になるのだろう。

 「制度」を取り巻くさまざまな学問的成果を、混沌とした法整備支援の現実を分析するために応用すること、それを通じて将来の可能性を描き出していくことが、私がいま認識している「立法学」の一つの任務なのである。

 

※なお、筆者の勤務する名古屋大学法学部の、法整備支援に向けた一つの取り組みを紹介する国際シンポジウム「体制移行国・発展途上国への法学教育協力:名古屋大学日本法教育研究センターの新たな挑戦」が、11月6日(金)に東京国際フォーラムで開催される。期日が迫ってのお知らせで恐縮だが、関心をお持ちの方はぜひ案内をご覧いただきたい。(http://www.law.nagoya-u.ac.jp/091106.pdf)