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「日本の『長い近代化』と市場経済」 中林真幸(VCASIフェロー、東京大学准教授) (後半)

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[5] 株式主権と企業成長

  企業が設備投資の資金を調達するとき、銀行から借り入れ(間接金融)と、株式や社債の発行(直接金融)のどちらがよいだろうか。企業が若く、一般の投資家に知られていない場合には、金融の専門業者である銀行の方がより小さな費用で選別、監視できるので、銀行借入利率の方が、社債発行利回りよりも低くなるだろう。逆に、よく知られた成熟企業であれば、一般投資家も経営情報を得やすい。そのような場合、一般投資家が要求するリスクプレミアムは小さくなるので、銀行に頼るよりも、社債を発行する方が低い利回りで資金を調達できるだろう。
  1880年代に勃興(ぼっこう)した紡績企業の経営者は、その企業の大株主だった。しかし、90年代以降、次第に従業員出身の専門経営者が経営を掌握するようになる。そして、90年代以降、資本市場における自社の認知度があがるとともに、彼ら専門経営者は、銀行からの借り入れを縮小し、増資や社債発行によって設備投資の資金を賄うようになる。
  こうした判断を下すことは、経営者にとって必ずしも容易ではない。俸給生活である専門経営者は、企業の長期的な成長を志向する。銀行もまた、長期的な利息収入の最大化を追及する。これに対し、株主の中には、成長に必要な設備投資に充てる内部留保より、配当増加を望む者もいるだろう。すなわち、専門経営者と経営方針を共有しやすいのはむしろ銀行であり、直接金融への依存度を高めることは、専門経営者にとって、株主との緊張関係を引き受けることを意味していた。
  実際、紡績企業の株主たちは、成長の見込みのある企業に対しては設備投資のための内部留保を認める一方、見込みの乏しい企業に対しては利益を配当として吐き出すよう求めた。成長企業には今期の配当増よりも将来の株価上昇につながる設備投資を促し、非成長企業には配当権を求めることが、株主の利益にかなうからである。専門経営者たちは、あえて銀行への依存を弱め、経営の評価をそうした株主たちに委ねた。株主総会では、配当を抑制して設備投資に備える方針の是非を巡って、しばしば真剣な議論が戦わされた。
  投資家が合理的で、長期的な株価上昇を望む限り、株主主権と企業の長期的な成長は矛盾しない。日本の紡績業は誕生後、半世紀の間に世界最大の規模に成長した。その偉業は、合理的に機能し始めていた資本市場と、市場の説得に努める専門経営者らの、緊張感あふれる対話によって実現したのである。

[6] ブランドの力

  第2次大戦以前、日本の最大の輸出品は、絹織物の原料となる生糸であった。その品質ゆえに、特にアメリカ向けの輸出を増やし、アメリカにおける日本の占有率は1920年代には8割に達した。
  しかし、1880年代初めまで、実は日本の生糸の品質は粗悪で不均一だった。製糸業者は、満足な検査もせずに生糸を横浜に出荷していたのである。横浜に駐在する欧米の商社は、それを買い取った後、独自の検査によって品質別に荷造りし、商社ブランドとして
  欧米に輸出していた。生糸の品質を取引の際に調べることは難しい。それゆえ、売り手には、低費用で生産できる低品質系を、高品質系と偽って売る誘因が働く。買い手はそれを予測し、低価格で買いたたく。130年前、日本のモノづくりの水準はその程度だった。
  一方、財の品質情報が非対称である時にこそ成り立つ儲(もう)け方もある。適正に品質を管理した商品に特定の商標を付け、需要家に覚えてもらえばよい。品質管理には費用がかかるが、需要家は品質を保証された商品には高い価格を払うだろう。商標が周知されれば、品質差益を継続的に得られるので、品質詐称で1回限りの儲けを狙うことは、供給家にとっても割に合わなくなる。かくして、需要家も安心して品質差益を含む高価格を提示し続ける。それがブランドの基本構造である。
  商社ブランドで品質差益を得ていたのが、欧米の商社だった。しかし、1880年代半ば、長野県諏訪郡の生糸業者の組合、開明社はある組織改革を断行する。加盟工場製品に対する厳格な全量検査体制を敷くとともに、その品質を保証する開明社商標を添付して出荷し、アメリカ市場においてブランドを確立したのである。品質差益の獲得に成功した開明社加盟工場は急激な成長を始めた。他の製糸業者も追随し、数年の間に製糸業の産業組織はメーカー主導へと激変したのである。
  かつて職人たちは、長期的な取引関係のなかで、顧客を裏切らずに品質を維持する誘因が与えられていた。その仕組みは、取引相手が日々変わる市場では機能しない。品質を管理するとともに、品質を自社ブランドによって保証すること。それが、狭い、顔の見える関係ではなく、広い国際市場で戦うモノづくりの勘所であることに、120年前、日本は初めて気づいたのである。以後、主役の産業は交代しつつも、日本の製造業は世界にその強さを誇示し続けてきた。今の私たちの暮らしも世界観も、その延長上にある。

[7] 日本初の成果主義

  人間の労働は様々な側面から成り立つ。仕事の量を稼ぐことと質を維持すること、どのような仕事でも、労働者は最低限、この2つの次元には気を配る必要がある。こうした労働の多次元的な性質は、産業革命以後、むしろ強められてきた。単純な動作は可能な限り機械で置き換え、残った複雑な動作を人間が提供する。技術革新はその繰り返しであった。
  産業社会において人間が従事する労働は、本質的に複雑で多次元的である。実は、そのことが成果主義賃金の導入を難しくしている。成果主義を機能させるには、職務を構成するすべての次元を評価しなければならない。企業が観察できない次元があるとき、例えば仕事の量しか観察できないとき、賃金を観察された量に連動させれば、労働者は仕事の質を維持するための努力をやめてしまう。
  近代日本の産業化を先導したのは、絹織物の原料である生糸を生産する製糸業であった。日本産の生糸は安定した品質によって輸出を伸ばしつつ急成長した。その急成長の要因のひとつが、ちみつな成果主義賃金だった。
  製糸企業は出荷する前に製品の全量検査を行った。その検査体制の副産物として、全労働者の毎日の成果に関する情報も量と質の両面から蓄積されることになった。そして、1900年代には、生産量や製品の品質など、計4次元の成績を記録し、それらを加重平均して算出される成果に賃金を連動させる賃金体系が確立された。例えば、市場における品質評価がきびしくなってくると、賃金計算においても品質の重みを大きくするなど、労働者が常に利潤最大化に合致する行動をとるように誘導したのである。また、この賃金体系の下における労働者間の賃金格差は数十倍にも及んだ。製糸業労働者はすべて若年女性だったが、彼女たちは胃腸薬を飲みながら激烈な競争の緊張に耐えた。競争に勝てば、父親の所得をはるかに上回る高賃金を稼ぎ、家族に楽をさせることができたからである。
  こうして、極めて市場志向的な労働組織が形成された。しかし、その成功が、製品の全量検査を行い、その結果を個々の労働者ごとに記録する膨大な費用と、リスクに見合った高賃金を前提としていたことも忘れられてはならない。成果測定費用の増加と賃金の上昇を引き受ける用意があるときにのみ、成果主義は機能する。言い換えれば、賃金や管理費の削減を目的とする目先の「リストラ」としての成果主義導入は、恐らく失敗する。100年前の経験から得られる合意である。

[8] 「自働自営」の気楽

  主婦の家事技能は、一般に本人の個性と家風からなる独自の特徴を持つ。例えば、料理は個性的であるほど家族に喜ばれる。しかし、この個性がくせ者である。家族との関係において意味を持つ関係特殊的な技能は、市場では評価されない。一方、亭主が売る生産物や労働は市場でいくらでも買い手がつく。この市場への接点の非対称性につけ込めば、男性は強い交渉力を持てる。これが権威主義的な社会における女性差別の構造である。
  日本の近代化を支えた製糸業の労働者たちの大部分は、親の家計を支えるために就業した、農村出身の10代から20代の女性だった。徹底した成果主義賃金が採用されていた製糸業においては、成績次第で成人男子をはるかに上回る賃金を得ることができた。権威主義的な農村社会から来た彼女たちの感覚は、工場生活でどのように変わったのであろうか。
  効果は劇的であった。政府が1903年に刊行した報告書は、製糸労働者たちが、父兄を軽蔑(けいべつ)し、家父長制を尊重しなくなると報告している。地元紙はその意識の背後をさらに掘り下げる。高賃金を稼ぎ、自身の労働の市場価値を知った彼女たちは、結婚相手が芳しくなければ、あえて「亭主持ちの窮屈」を「忍」ぶよりも離婚して「自働自営」の「気楽」を選ぶ、という(『信濃毎日新聞』1893年8月26日)。元労働者からの聞き取りを編集した山本茂美『あゝ野麦峠』『続あゝ野麦峠』にも、娘が稼いだ高額の賃金に手を合わせる父親の姿、あるいは、自身を侮辱した村の地主をどう喝する、工場帰りの若い娘の姿などが、生き生きと描かれている。「窮屈」な社会秩序は溶解し始めていた。
  実際には大多数の女性労働者は数年で退職して農家に嫁いでいった。しかし、いざとなれば帰る場所としての労働市場が出現した以上、男性が女性を家庭にとどめおきたければ、すくなくとも「自働自営」よりは快適な条件を提示しなければならない。女性労働市場の存在は、家庭内における「女性」性の価値もまた高めたのである。開かれた労働市場は人を自由にする。その効果は、前近代社会において関係特殊的な人的資本投資に特化した女性にとって、特に大きかった。
  若い男女が互いの人生を尊重しつつ、将来を語り合う。そんな当たり前の恋愛風景も、この1世紀ほどの新しい伝統なのである。職業志向か家庭志向かにかかわらず、まずは市場に居場所を得る一般的な能力を身に付けること。新しい伝統が教える幸せの鉄則である。

[9] 優良企業は長期雇用

  企業とは雇用契約を単位とする組織である。弁護士サービスや清掃サービスなど、市場では様々なサービスが、個々のサービスごとに付けられた価格で売買されている。一方、サービス供給者が一定の報酬を受け取る債権を持ち、サービス需要者の裁量的な指示に従う債務を負う契約を、雇用契約と呼ぶ。雇用契約によって、サービスの取引は市場での売買から企業内の指揮命令に移される。
  企業が市場よりも少ない費用でサービスを組み合わせる方法を知っているときには、生産に必要な個々のサービスを市場価格で調達するよりも、企業内部でサービスを調達する方がよい。そのとき、企業は労働市場で決まる賃金を労働者に支払った後の残余、すなわち利潤を稼ぐことができる。企業は生産現場の実態に合わせ、賃金の決め方、仕事の進め方など、固有の定型業務(ルーティン)を決める。それが市場を通じた調整よりも効率的であれば、企業は利潤を得るだろう。
  しかし、企業の所有者が生産現場をよく知らず、労働者のなすべきことも知らず、労働者を監視するすべも持たないときには、直接雇用を基礎とする企業組織は無意味である。例えば、19世紀末ごろまで、炭鉱業は伝統的な熟練に裏付けられた手作業に依存した。資本家はその伝統的な熟練に関する知識を持っていなかったから、炭鉱企業は生産管理を、「納屋」と呼ばれる間接雇用組織に委託していた。労働者たちは、企業ではなく納屋頭に雇われ、監視されたのである。
  20世紀に入って採掘技術の近代化が進むと、企業側が持つ技術的知識の重要性は高まっていった。企業による労働者の監視も相対的に容易となり、間接雇用は直接雇用に切り替えられていった。さらに、優良な企業は、自社固有の知識に基づく技能、すなわち企業特殊的な熟練を身に付けた労働者を内部養成して生産性を上げるために、長期勤続を促す賃金体系の整備と福利厚生の充実に努めた。
  生産現場の情報を掌握し、効率的な定型業務を蓄積してきた優良企業は、生産の外注ではなく直接雇用を選択する。超優良企業は、長期雇用による企業特殊的な人的資本投資を選択する。過去1世紀、日本の企業経営はそのように発展してきた。企業が不況期にもなお雇用を守ろうとするとき、それは経営者の慈悲深さではなく、優良企業たらんとする強い野心を示しているのである。その野心のリスクをとる懐の深さを資本市場が持てるか否か。それが次の1世紀の質を左右する。

[10] “市場志向”という伝統

  情報の非対称性が深刻な場合、交易を成り立たせるためには、非対称情報から生じる問題を抑え込まなければならない。前近代社会は、顔の見える長期的な関係を築いて裏切りを防いできた。一方、この4世紀にわたる近代化の歴史は、互いの情報を開示させる仕組みをつくり、市場を拡張する過程であった。
  もっとも、そこに迷いがなかったわけではない。過去1世紀、自由市場の拡大、統制、再び自由市場の拡大という壮大な実験が繰り返された場所の一つが、日本の金融市場である。
  戦前、日本の金融行政は、他の資本主義国と同様、自由放任主義だった。銀行業への参入規制も株式市場への規制も弱かった。こうした政策の下に金融市場は成長し、活況を呈した。しかし、1930年代、世界恐慌という「市場の失敗」に直面した各国は規制を強化する。自由放任主義の下、金融機関は政府の十分な監視を受けず、預金者や投資家には金融機関の経営実態も見えなかった。そうした情報の非対称性につけ込む不適切なリスク管理が恐慌の引き金となったからである。
  中でも日本は徹底していた。第2次世界大戦中から高度成長期にかけて、金融機関は厳しい規制の下におかれていた。銀行は政府に保護される代わりに、政府の産業政策に従って重要産業に資金を供給した。政策当局と銀行、メーンバンクと企業といった「顔の見える」関係の網が信用機構を支えたのである。しかし、こうした計画経済的な金融行政は、日本が先進国として成熟するとともにその歴史的使命を終えた。80年代には、英米と歩調を合わせ、金融自由化が始まったのである。
  事前の規制を緩和するならば、事後の検査を強化し、非対称情報から生ずる問題を制御しなければならない。金融庁の設置をはじめ、事後の監視と規律を強化する改革は、バブルの崩壊を経た90年代後半、橋本龍太郎内閣の「金融ビッグバン」によって完了した。
  一昨年来の金融危機を受け、政府による介入の強化を求める声も少なくない。しかし、英米とは異なり、世界史上、最も優れた金融統制を私たちは既に経験している。そして、安定というその利点も停滞という難点も知り尽くした上で、市場への回帰を決断した。統制への幻想を持たない私たちがなすべきことは、市場からの後退ではない。市場を透明化し、拡張する絶え間ない努力の歴史に回帰する勇気が、試されているのである。