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太田勇希氏「クリプケンシュタインの規範性の問題と、その解決における共同体、実践、合理性等の概念のカント的解釈に向けて」(第4回VCASIブレインストーミングセッション)

日時: 
2010年9月15日(水) 17:00-
場所: 
日本財団ビル3階A会議室(http://www.vcasi.org/access.html)
発表者: 
太田勇希氏(VCASIフェロー\英国Oxford大学大学院哲学科)
概要: 
クリプキがヴィトゲンシュタインの『哲学探究』読解で示した意味の懐疑的パラドックス(「人がある言葉によって何かを意味しているという事実はない」)と、クリプキがヴィトゲンシュタインに帰属させるその「懐疑的解決」は、ヴィトゲンシュタイン解釈としては大きな誤解を含むものとして広く否定されています。しかし、クリプキが傾向(disposition)理論の批判において特に強調した意味における規範性の問題がヴィトゲンシュタインの重要なテーマの一つであったのは間違いありません。この発表では、クリプキが意味に関して提示したパラドックスが命題態度や想像的知覚(perceiving-as)に一般化できることを示し、コミュニケーションにおける規範性の問題の遍在性を強調します。さらに、Wright、McDowell、Petittなどの関連論考を検討し、アンスコム流の意図的行為理解の理論の有効性を確認した後、規範性の源泉となりうるような共同体内実践の概念を、カントが『判断力批判』の中で分析している目的論的判断の原理に則して理解する可能性を示唆したいと思います。
参考文献
Glüer, Kathrin and Åsa Wikforss. "The Normativity of Meaning and Content" Stanford Encyclopedia of Philosophy.
<http://plato.stanford.edu/entries/meaning-normativity/>
Hampshire, Stuart. "The Social Spirit of Mankind" in Förster, ed., _Kant's Transcendental Deductions_.
Miller, Alexander and Crispin Wright, eds. _Rule-Following and Meaning_ (esp. contributions by McDowell, Wright, Boghossian, Pettit).
Kant, Immanuel. _Critique of Judgment_ (esp. §§20-22, 39-40, 60, and Part II)
Sellars, Wilfrid. "Language as Thought and as Communication" _Philosophy and Phenomenological Research_ 29 (4): 506-527.
Wittgenstein, Ludwig. _Philosophical Investigations_ (esp. §§138-242)
Ohta, Yuuki. "The Art of Intending: An Essay on the Humanity in Art"
(発表者の修士論文。今回の発表は第2章と主に関連。仮想研究所 http://workshop.vcasi.org/ にアップロードしてあります。)


報告文
太田氏の報告の要約は以下の通りである.

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ブレイン・ストーミング・セッションということなので,最近自分が関心を持っていることについてお話しする.クリプキがウィトゲンシュタインの『哲学探求』を読んで提起した規範性に関するパラドックスの内容をさらって,次にジョン・マクダウェル,クリスピン・ライト,フィリップ・プティがそれについて述べていることをサーベイし,自分の意見と構想を述べるという順番で始めていきたい.

意味に規範性があるというときに,2つの意味がある.一つは,meaning determining normativity (MD normativity)で,これは意味の成立に対して構成的となるような規範性のことをいい,meaning engendered (ME normativity)は,意味の成立の結果として発生するような規範性のことをいう.このうち,自分が興味を持っているのはMD normativityであり,こちらの方について話しをする.クリプキのウィトゲンシュタインの議論はME normativityについての議論だといわれているが,自分はこれはMD normativityの議論だと考えている.
また,意味に関しては実在論,反実在論,quietismという立場がある.実在論は意味が人々の判断から独立に外側にあるか,外側にあるものに随伴(supervene)していると考える立場であり,反実在論はその反対であり,quietismはそういったことに関しては何も言えないという立場である.

まずクリプキの議論から復習しておこう.クリプキのウィトゲンシュタインをクリプケンシュタインという.ウィトゲンシュタインは『探求』の中で,私的言語批判の前に,ルールに従うとはどういうことかについて論じており,クリプキはこれらが密接に関係していると解釈した.これはウィトゲンシュタインの解釈としては誤っているというのが定説になっているが,それ自体として興味深い問題が提起されている.それは,クリプケンシュタインの懐疑論的挑戦から始まる.あなたの以前の行動や以前の心的歴史の完全な内容に対する認識的アクセスに制限がないときに,ある記号が確定的な意味があるということを支えるような事実を探してみろというのである.懐疑論的な結論としては,人々がある記号で一義的に何かを意味しているという事実はないということになる.
この結論は意味以外のことにも一般化できると思う.すなわち,命題的態度(信念や欲求)や,XをYとして見るというアスペクト知覚(aspect perception)にもあてはまるのである.
これに対して,もっとも有望な反論として傾向性の理論(dispositionalism)が提起された.これは,ブラックなものにブラックという言葉をあてはめるという傾向を持つという考えである.クリプキはこれに厳しく反論する.すなわち,人の傾向性全体も有限なものである(finitude).もっと重要なのは,傾向性の理論では意味にまつわる規範性を説明できないことである(normativity).傾向性では間違える可能性を説明ができないのである.
クリプキによれば,ウィトゲンシュタインはこのパラドックスに答えを出している.それは懐疑論的解決である.つまり,上の懐疑論的結論を認めたうえで,真理条件から,どういうときにそういうような言明ができるのかというwarranted assertibility conditionへと焦点を移すのである.つまり,意味が帰属する言明は事実的なものでなく,プラグマティックなものである.このことから,ただちに私的言語批判が従うというのが,クリプキの議論である.

これに対する反応として,まず,クリスピン・ライトの80年の本,Wittgenstein on the Foundations of Mathematicsから見てみよう.実在論というのは,意味について,事前に明確なラインが引かれているということを想定しているが,彼の立場はこれに反対する非実在論である.彼は,共同体がこのラインを共有しているという.この考え方は共同体全体についての傾向性の理論であり,共同体についてはそれが認めれば,言葉の意味になる.彼はここで,意味を理解するということを契約的(contractual)であるという見解を示しているわけである.Communitarianでantirealistな立場である.

これを批判しているのが,マクダウェルの“Wittgenstein on Following a Rule”(84)である.マクダウェルは,クリスピン・ライトの立場では意味の客観性が脅かされてしまうという.クリスピン・ライトのratification-independenceの否定を認めると,意味の可能性の条件が失われてしまうが,実際には意味がある.したがって,反実在論は否定されるという.クリスピン・ライトは個人のレベルから共同体のレベルに傾向性の理論を移して傾向性の理論を復活させようとしたわけだが,そうしても規範性の問題が解決できないことをマクダウェルは言っているわけである.しかし,ポジティブな解決策を提示しているわけではない.

クリスピン・ライトは1980年の考え方(共同体レベルの傾向性の理論)はナイーブすぎたとして,その立場を捨てている.その後の“Critical Notice of Colin McGinn’s Wittgenstein on Meaning” (1989)では,自分の考え方を示していないが,問題点を明確にしている.そこであげられている4つのテーマは以下の通りである.(1) ある人のルールの把握は,その人が説明できるものを超えてあるようなものではない.(2) 規則に従った反応のうちでもっとも基礎的なものは,なんらかの直観に基づくのでなく,なんらかの決定に基づいていると考えた方がよい.(3) 定義や関数というように記号的な形でルールを頭にもっているというのでは,新しいケースにそれをどう適用していいかわからないので何の助けにもならない.(4) 言語や規範性のあるさまざまな制度は,何か無限に続く線路のように,人間と独立にあるものを頭の中にとりこむということではなく,判断と行動の一致に関するプリミティブな傾向によって根拠づけられている.
2しかしここでは,ライトはポジティブな立場をとっているわけではない.現実に広範に行われている判断に関する一致という現象を認めながらも,それがいかにして可能なのかについてはわからないとしている.ここで黙ってしまうのが,ウィトゲンシュタインの正式なラインだとしている.

次はプティの“The Reality of Rule-Following”(1990)である.これも結局は,傾向性(inclination)の理論である.有限の例の集合がある人に決定したルールを例示できるのは,その人が他のケースに対しても,ある仕方で外挿する,独立した傾向性を発展させるからであるとする.ルールが傾向性にフィットするのは,あるfavorable conditionが満たされている限りであるが,それは,あるケースでそれが満されていないことを発見できるというようなものである.この場合,ある例によって生成された傾向性がどのように続くのかに関する,異時点間あるいは個人間の相違がルール逸脱のサインになっており,われわれはそうした影響を同定し,相違に関する事後的な説明を提供できるとしている.プティは,こうした議論の帰結として,ルールに従うことの性質として,precariousness,interactivity,relativityをあげている.

以上考えてきたことをまとめる.まず,マクダウェルがいっている,「社会的実践」---マクダウェルによると解釈なしに盲目的にルールに従うことを可能にする---とは何なのかをもっと詳しく説明しなければいけない.ライトから学べることは,その説明が,共同体的傾向に単純にアピールするものであってはいけないということである.さらに,プティから学べることは,われわれは,共同体のメンバーが共同的にコミットしているような説明や正当化の原理---攪乱的影響の事後的説明において作用している原理---をもう少し詳しく説明する必要があるということである.

ここからが私の提案したいことで,2つの提案をする.
第1は,クリプケンシュタインはtruth conditionからwarranted assertibility conditionに移行せよといったのだが,warranted assertibility conditionからwarranted ascribability conditionに移行してはどうかということである.今までは一人称的な視点から考えられていたが,プティの議論のように,意味に関する言明をいかに帰属させることができるのかという観点から考えた方がよいだろう.
第2は,問題事例の際に使用されるような説明と正当化の原理は目的論的なものではないかということである.ここで,私が修士論文の第2章で書いたアンスコムの意図的行為論に関連してくる.それは理由を求めるような何故という問いに答えるような言明に支持されているものであり,assertibilityよりもascribabilityを考えている.この2つを考えていけば,今まで不足に思われてきたことを埋めていけるのではないか.
では目的論的とは何か.それがどうして何らかの意味での客観性のようなものを保証できるのかということで,カントの『判断力批判』におけるコモン・センスというものをヒントにしたらどうだろうと考えたわけである.
『判断力批判』でカントが考えた問題と,今日話してきたルールの話の関連については,いままであまり語られていないが,両者には驚くべき密接な関係がある.カントによれば,判断とは個別を普遍の中に包括させることである.普遍というものが与えられていて,そのもとに個別を当てはめる判断をdetermining judgementといい,その反対に個別だけが与えられ,それを包括する概念を探す判断をreflective judgementという.『判断力批判』の前半では,美に関する判断がreflective judgementだといっている.個別から普遍を導くには何らかの原理がなければならないが,これは有限のサンプルから無限に適用されるルールを見出すかということと類似している.カントによれば,それは目的論的な判断のアプリオリな原理である.たとえば自然をとると,自然をわれわれの判断能力,認知能力に適合的にするような原理をもとにして,reflective judgementが可能になっている.これをもとにして考えると,ルールに従うことが解けるのではないか.
さらにカントは,reflective judgementを可能にしている原理をコモン・センス(sensus communis)とを結びつけている.カントは,ある判断が正しいとか間違っているといえるには,それはuniversally communicableでなければならないが,だとすれば,その判断を下すのに必要とされている力---認知的諸能力(sensitivity,understanding,imagination)---の関係性・割合もそうでなければならないとし,その最適な理想的構成をコモン・センスという.コモン・センスを基準にして考えれば,どのようなルールが正しく,どのようなルールが間違っているのかを考えることができるのではないか.カントはこの存在を前提としてよいといっているが,これを前提とすれば,主観的な判断であっても,コモン・センスという人間としての理想に照らして,客観性・普遍的同意というものを要求することができる.さらにカントは,コモン・センス(sensus communis)はpublic senseであるということから,社会的実践ということとのの結びつきも出てくる.
カントの議論の限界は,合理的な存在ならば認知的諸能力の最適構成は客観的・普遍的に一つだと考えていることである.しかし,実際にはそうでないだろう.common senseは時代,社会,文化などを超えて普遍的なものではない.したがって,一度カントにもどって,コモン・センスを使ってルールを社会的実践と関連づけ,さらに,そのコモン・センスが社会や文化などを超えるものでなく,ウィトゲンシュタインのいう生活形式などに条件づけられていることを示せばよいだろう.

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参加者からは,規範性を前提にして議論を進めてよいのか,私的ということと共同体ということとの区別をどのように区別するのかなどに関して,長時間にわたり,活発な議論が提起された.



ビデオあり: 
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