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解説:アブナー・グライフ『比較歴史制度分析』

 
アブナー・グライフ
 Avner Greif
『比較歴史制度分析』 岡崎哲二/神取道宏監訳
原書:Institutions and the Path to the Modern History (Oxford Univ. Press, 2005)

 

解説

 本書は,ユニークな一次史料に基づいた厳密な歴史分析と,経済社会において人々の行動を動機づけるさまざまな誘因(インセンティヴ)を数理的に分析するゲーム理論を統合する画期的な試みである.
 1989年の経済学界は,ノースウェスタン大学出身の若い研究者が書いた博士論文の話題で持ちきりであった.経済学の博士号のほかに歴史学の修士号をも合わせ持つこの研究者は,カイロ旧市街のゲニーザと呼ばれる驚くべき文書貯蔵庫から発掘された膨大なヘブライ語書簡を丹念に読み解き,11世紀の地中海遠隔地貿易に従事したユダヤ人貿易商が,ゲーム理論の数理モデルから導かれる「評判メカニズム」「くり返しゲームのトリガー戦略」を使って協調を達成していたことを明らかにしたというのである.この若き研究者こそが,本書の著者であるアブナー・グライフであり,その博士論文とその後の研究の進展は,経済史のみならず,経済学一般や政治学における制度と社会秩序の研究に大きなインパクトをあたえた.こうした一連の研究を集大成したものが本書である.
「歴史研究とゲーム理論の統合」というと,ややもすると理論好きな研究者が現実の詳細を十分に知らないまま,数理モデルを無理な形で現実に当てはめたものと思われがちだが,経済学と並んで歴史学の訓練も受けた著者の手になる本書は,現実の歴史的事実に忠実であろうとする実証精神に貫かれている.そのため,ゲーム理論を歴史的事実に当てはめた豊富な事例を提示するだけにとどまらず,ゲーム理論と歴史的現実とのギャップにも大きな注意を払い,このギャップを埋めるものとしての制度分析の方法や,さらには現状のゲーム理論に足りないものは何か,またそれをどのように発展させて行ったらよいかに対しての示唆にも富んだものとなっている.
 また本書は,中世の遠隔地貿易を主な題材としているが,そのことにとどまらず,「制度とは何か,それはなぜ存続し,どのようにして変化するか,またそれを理論的・実証的に分析する方法はなにか」「経済の近代化・発展をもたらすメカニズムはなにか」という壮大な課題に答えようとするものである.このために著者は,伝統的な経済学のみならず,心理経済学,政治学,社会学などの幅広い野で得られた重要な知見を合しようと試みており,本書はそうしたさまざまな分野に興味を持つ読者にも刺激を与えるものとなるであろう.
 この項では特に,ゲーム理論と経済史においてどのようなことが分析されてきたかをわかりやすく解説し,その中で本書がどのような意義をもつものかを位置付けることにしたい.また,本書は大部でその内容も多岐にわたるため,全体の簡単な要約を付け加えておく.歴史・ゲーム理論・制度に興味を持つ幅広い読者(ならびに本書を書店でいま立ち読みしているあなた)が本書を読み解くための参考となれば幸いである.
 

ゲーム理論と本書の貢献

 
 ゲーム理論は,人々の利害対立を数理モデルで表現する.たとえば,遠隔地貿易を行う商人が,現地での商品の運搬や代金の受領を管理する代理人を雇うとき,商人と代理人の利害は必ずしも一致していない.両者が協力すれば大きな経済的な利益が生み出される一方で,代理人は商品の輸送をずさんに行ったり,支払われた代金を横領しようとする誘惑に駆られるであろう.ゲーム理論はこうした利害関係を数理モデルで表現し,各人が自らの利益を追求する結果,何がおこるかを予測する.
 商人と代理人の関係が1回限りであり,代理人は商人を騙してそのまま商人と2度と出会うことがなければ,代理人は商人を騙す強い誘因に駆られる.商人はこのことを見越して,代理人を雇うことをあきらめ,両者が協調すれば実現したであろう経済的な利益は実現しないまま終わってしまう.これが,商人と代理人の関係が1回限りである場合のゲーム理論が与える予測であり,それは,商人と代理人の関係を表現した「ゲーム」と呼ばれる数学モデルの「ナッシュ均衡点」として表現される.
 ナッシュ均衡点とは,各人が相手の出方を正しく読んだうえで,自らの利益を追求した結果実現する状態であり,ゲーム理論はこれを数理モデルの中で一定の条件式を満たす点として定義し,それを計算する.上で述べたような単純なケースでは,数理モデルを使わなくとも,何が起こるかが簡単に予想できるかもしれない.しかし,より複雑な状況では,利害関係を明確なモデルで表現し,ナッシュ均衡点を数学の力を借りて見つけ出すことが,各人の利害追求の結果生ずる状態を予測するうえで大いに役立つのである.
 ゲーム理論で中心的な役割をはたすナッシュ均衡という考えは,うまく機能する制度の一面をとらえている.ナッシュ均衡点は,各人が他人がどう行動するかをよく理解したうえで,自らの行動を最適に選んでいる状態である.言い換えると,人々がどう行動するかについて人々は共通の理解を持ち,しかも自分1人だけが行動を変えても得をしないような状態がナッシュ均衡なのである.制度がうまく機能し,安定した行動パターンが人々に定着しているならば,それはまさにこうした条件をみたすもの,すなわちナッシュ均衡になっているはずである.本書はこうした観点から,ゲーム理論とナッシュ均衡を1つの軸として,制度一般とその具体事例として中世遠隔地貿易を研究している
 ここで,先に述べた商人と代理人を再び考察してみよう.先に見たとおり,商人と代理人の関係が1回限りであると,両者の協調は達成されないが,商人と代理人が長期的関係を結ぶ場合はどうであろうか? 関係が将来にわたってずっと続くならば,代理人は今日商人を騙すことで目先の利益を得られるが,明日以降については商人との信頼関係が崩れて利益が減ってしまうかもしれない.目先の利益よりも,協調が崩れることで将来失うことになる利益のほうが大きければ,代理人は誠実に行動し,商人と代理人の協調関係は達成されるであろう.ゲーム理論は,こうしたことを,「くり返しゲーム」の均衡点として表現する.
 現実の問題では,商人と代理人が1対1の関係をずっと続けてゆくとは限らない.商人を騙してクビになった代理人は,すぐに別の商人のもとで働けるかもしれない.現実の経済史上の問題を考える際には,こうした可能性は無視できないものである.グライフは,もしある1人の商人を騙した代理人が,他のすべての商人から相手にされなくなるならば,こうした場合でも代理人は誠実に行動するであろうことに着目し,固定的な取引相手との長期的関係を分析する「くり返しゲーム」の理論を,取引相手が変わってゆくケースに拡張した.そして,11世紀の地中海貿易に従事したユダヤ商人(マグリブ貿易商)が,上で述べたような一種の村八分戦略(「多者間の懲罰メカニズム」と本書で呼ばれているもの)を実際に使っていたことを,当時の商人たちが交わした書簡などから傍証してゆくところが,本書のハイライトのひとつとなっている.本書はこのほか,ある地方から来た商人が不正を働いた際,その土地から来たすべての商人に責任を負わせる「連帯責任制」の機能とその興亡の分析や,貿易の中心地を訪れる外国人商人たちの所有権が侵害されると,彼らが一丸となって所有権を侵害した為政者に報復する「商人ギルド」の機能の分析など,くり返しゲームの理論をより歴史的事実に適合するような形に拡張するさまざまな試みがなされている.
 ゲーム理論に対する興味から本書を読まれる読者は,本書がゲーム理論の予測に合致する歴史上の具体的事例を提示するにとどまらす,理論を現実に注意深く適用する過程で,現状のゲーム理論の不足点をあぶり出し,それを乗り越えるさまざまな萌芽的なアイデアをも提示していることに驚くであろう.
 一番の論点は,制度をとらえるゲーム理論のモデルを構築すると,通常そこにはたくさんの,全く性質が異なったナッシュ均衡点が存在するということである.たとえば,道路の左側を車が通行するというのは(皆がそれに従うとき,自分1人だけが右側通行に行動を変えても得をしないという意味で)ナッシュ均衡になっている.同様に,おなじ「道路通行ゲーム」には,車が右側通行をするという別のナッシュ均衡がある.「右側通行」と「左側通行」のどちらが制度として定着するかは,ゲーム理論からは予測できないことになる.より重要な例をあげると,旧東ドイツと西ドイツは,同一の民族,同一の時点,ほぼ等しい資源や技術を持ちながら(つまり,理論上はほぼ同一の大きなゲームをプレイしていたにもかかわらず),そこでは社会主義と資本主義という異なる制度が定着し,そのパフォーマンスは全く異なっていた.
 グライフは,ひとたび技術・資源・人々の嗜好などの状況が与えられると,どのような制度的な行動(ナッシュ均衡行動)が定着するかについて,ただ1つの予測を与えることができないという意味で,「ゲーム理論は制度の(=制度を一意に決定する)理論を与えていない」と述べる.そして,複数のナッシュ均衡行動のなかから,1つのものを定着させるさまざまなメカニズムの複合体として,制度をとらえようと試みている.そして,特定の行動様式に注意を向ける「文化に根ざした予想」,現実の人間はゲーム理論が「ゲームのルール」として記述する状況の詳細な情報に従って行動するのではなく,制度が与える簡単化された認知モデルにしたがって均衡行動を取っているとするアイデア(人々は「ゲームのルールに対してプレイする」のではなく,(制度として流布している簡約化された行動の)「ルールに対してプレイする」という考え方),過去の制度が次に来る制度に独自の影響を与えるという「歴史的過程としての制度ダイナミクス」の考えなど,萌芽的なアイデアが豊富に提示されている.これらを,数理モデルの形でどのようにゲーム理論に取り入れてゆくかが,今後のゲーム理論の1つの課題となるであろう.
 複数均衡に関する上記の論点は,ゲーム理論を実証する際に生ずるゲーム理論のもう1つの難点をも示している.外生的な要因をひとたび与えると唯一の予測を生み出すような経済モデルについては,計量経済学と呼ばれる実証の手続きが確立している.そこでは,一定の手続きでデータを処理し,その結果が統計的テストに合格すれば,理論は実証されたことになる.一方で,複数の全く性質の異なる均衡をもつゲーム理論モデルを実証する際には,学界で広く定着したこのような手続きはいまだ存在しない.グライフは,この難問に挑み,ある時代にある特定の均衡が成立していたことを論証するやりかたとして,「理論-歴史対話型の,文脈に依存した分析」を提唱し,それを,マグリブ貿易商をはじめとする具体的な歴史事例を用いて説明している.先に述べた複数均衡間の選択の問題と同様,この分析方法も萌芽的なアイデアの段階にあり,それをどのようにして既存の計量経済学の手法のような標準化された実証手続きとして定式化するかは,今後の大きな課題となろう.実際,マグリブ貿易商の実証分析には異議を唱える論文(Edward set al. 2008)が最近発表されており,グライフはこれに対してさらに詳細な史料分析を使って反論を行っている(Greif 2008).興味をもたれた読者は,両者の論争から実証方法について更なる洞察を得ることができよう.
 

 経済史における制度研究と本書の貢献

 
 経済史研究において制度は長く関心を持たれてきた.そしてそのことは,経済史研究へのマルクスの影響と切り離して考えることはできない.マルクスは,歴史上に現れた,生産手段に対する所有権分配のパターンに注目し,それを軸に「生産関係」すなわち,生産に関して人々が取り結ぶ社会関係という概念を提起した.マルクスは,特定の生産関係は特定の「生産力」,すなわち技術水準に対応していると考え,両者の組み合わせを「生産様式」と呼んだ.そして生産力の上昇によって,生産様式が奴隷制,封建制,資本主義等と順次展開して来たという見方を示したのである(Marx 1867).
 マルクスの歴史理論は,技術と社会関係(組織)の関係を強調した点,所有権に焦点を当てて社会関係を考察した点で現代の制度分析の重要な先駆となっている(North 1990, p.132; Hart 1995, p.5).しかし,マルクスには,社会関係が生産力に与える影響を分析するための道具が欠けていた.そのため,洞察に富む指摘が散見されるとはいえ,基本的には生産力の上昇は外生的に与えられたものと捉えられている.すなわち,マルクスの歴史理論は,自身が社会・経済発展の起動力と位置づけた生産力の動きを,その枠組みの中で説明していない.
 経済史研究において,あらためて制度を正面から研究対象に据え,上の問題に解決の道筋を示したのは,North and Thomas(1973)である.同書は,近代の西欧社会が世界でいち早く持続的な経済成長を軌道に乗せ, 貧困を抜け出すことに成功したという歴史事象に焦点をあてて,その原因を探求した.その際に同書は,この事象に関するそれまでの研究に対して,それらが挙げてきた「さまざまな要因(技術革新,規模の経済性,教育,資本蓄積など)は成長の原因ではない.それらは成長そのものである」(邦訳,pp.2-3)という根本的な批判を提起した.技術革新,規模の経済性,人的・物的資本の蓄積が経済成長をもたらすとして,なぜ近代の西欧という特定の時代,特定の地域でこれらの現象が活発に生じたのかがさらに説明されなければならないという批判である.
 そのうえで,North and Thomas(1973)は,上の前提条件が「効率的な経済組織」であるとする新しい仮説を提起した.「効率的な経済組織」は,取引コスト(transaction cost)を削減して個人的な便益を社会的な便益に近づける諸制度からなるとされる.すなわち,North and Thomas(1973)は,Oliver Williamson等の取引コスト経済学を経済史研究に応用することを通じて,「効率的経済組織」の形成が利己心に基づく経済行動が社会的に望ましい結果をもたらすというSmith(1776)が描いた経済システムを実現させ,持続的経済発展を始動させたという新しい見方を提起した.「効率的経済組織」を構成する制度として,具体的には国家による所有権の保護が重視される.国家による所有権の保護という制度が,取引コストの低下を通じて人々が市場取引に参加するインセンティヴを高め,市場経済の拡大をもたらしたという見方である.
 このような見方において制度は,「社会におけるゲームのルール」あるいは「人々によって考案された制約であり,人々の相互作用を形づくる」ものとなっている(North 1990,邦訳,p.3).しかし,人々によって考案された制約がなぜ人々の相互作用を形作るのか,言い換えれば,人々はなぜその「制約」を遵守するのかについて,ノースは分析していない.そのため,事実上,その「制約」が外部から執行(enforce)されるという想定が置かれ,結果として具体的な歴史研究においては,上述のように国家による所有権保護に対象が限定されることになっている.本書の著者,アブナー・グライフは,本書の前提となったいくつかの論文において,この問題の所在を明らかにし,それを乗り越えた.
 その際に鍵になったのはゲーム理論の応用である.グライフは,比較制度分析を提唱している青木昌彦等とともに,制度をゲームの均衡と捉える見方を提唱した(Greif 1993,1997; 青木・奥野1996;青木2001).Greif(1997)は,制度を「技術以外の要因によって決定される行動に対する自己実現的な制約」(p.84)と定義している.「自己実現的」(self-enforcing)というのは,社会を構成する人々がその制約にしたがう動機を持っているという意味である.これは,ゲーム理論の用語を用いると,その制約が,社会を構成する人々がプレイするゲームの均衡になっていることと表現される.ゲーム理論の応用に基づく新しい制度概念は,ノース等の制度研究が未解決のまま残した問題を解決することに貢献した.後述するように,本書の中でグライフは,これまでに自身が提唱してきた,「ゲーム均衡としての制度」という見方をさらに進める試みを行っているが,そこでも制度の自己実現性をゲームの均衡によって説明するという見方は維持されている.
 

本書の概要(1):中世後期経済の比較歴史制度分析

 
 本書の中でグライフは,ゲーム理論に基づく制度分析を,中世後期(11世紀~14世紀)の地中海(イスラーム)世界とヨーロッパにおけるいくつかの具体的対象について行っている.すなわち,マグリブ貿易商の間の代理人契約(3章),ヨーロッパの商人ギルド(4章),ジェノヴァにおける政治制度(8章),マグリブ貿易商とジェノヴァにおける制度比較(9章),ヨーロッパにおける共同体責任制(10章)である.
 マグリブ貿易商は,11世紀に地中海で貿易に従事していたユダヤ人貿易商である.彼らは遠隔地間の貿易を行うに当たって,海外の貿易中心地で代理人を雇用した.第3章は,この商人-代理人関係において,代理人が誠実に行動することにコミットすることを可能にし,したがって代理人関係に基づく遠隔地貿易の拡大を可能にした制度を分析している.マグリブ貿易商は,グライフが「結託」と呼ぶグループを形成しており,その内部から代理人を選んで雇用した.本章は,結託においては「多者間の懲罰戦略」(Multilateral Punishment Strategy; MPS),すなわち,結託メンバーの1人を騙した代理人は結託メンバー全員が雇用しないという戦略がゲームの均衡となり, 均衡では代理人の誠実な行動が導かれることを示している.あるメンバーが,過去に自分以外のメンバーを騙した代理人を雇用しないのは,他の全てのメンバーがその代理人を将来にわたって雇用しないと期待されるために,その代理人を誠実に働かせるために必要な賃金が相対的に高いことによる.
 商取引に従事する人々の所有権を侵害する可能性があったのは取引相手だけではなく,国家ないし支配者による所有権侵害の可能性も大きかった.第4章は,中世後期のヨーロッパで,この問題が商人ギルドの機能によって解決されたと論じている.商人ギルドは,ある地域との将来の交易をその地域の支配者による過去の権利の保護に関係づけるという戦略をとった.すなわち,ギルドのメンバーの所有権をある地域の支配者が侵害した場合,ギルドはその地域に対する禁輸を発動した.ギルドの禁輸によって失われる将来の税収が十分に大きいために,支配者が商人の所有権の尊重にコミットすることが可能になったのである.ギルドが,メンバーの商人に生み出す独占的なレントが,商人が禁輸に参加する誘因として機能した.
 本書の対象は政治制度にも及んでいる.ジェノヴァでは11世紀末に執政官システムと呼ばれる制度に基づいて国家が建設されたが,12世紀半ばに内戦が勃発し,その後12世紀末になって,ポデスタ制と呼ばれる新しい制度の下でふたたび政治的安定が実現した.第8章では,この執政官システムとポデスタ制が分析される.執政官システムは「相互抑止均衡」に基づいていた.ジェノヴァには2つの有力な氏族があり,それぞれは相手を攻撃してジェノヴァの支配者になることができれば,ジェノヴァが貿易から得る利益を独占することができた.他方で,両氏族の協力関係が崩れれば,海賊行為から得られる利益は失われた.このような状況の下で,貿易利益の独占という利得が,攻撃費用と海賊行為の利益の喪失による機会費用を下回ることによって成立していたのが相互抑止均衡である.
 ポデスタというのは雇用された行政官であり,一定の契約期間の後に報酬を支払われた.ポデスタ制の下でジェノヴァの政治的安定が実現したのは,ポデスタ自身が独裁者とならず,一方の氏族と結託せず,一方の氏族が他方の氏族を攻撃した時,そしてその時にのみ攻撃された氏族の側に立って戦う誘因がポデスタに与えられていたことによる.その誘因は,ポデスタ自身の軍事力がジェノヴァ全体の軍事力に比べれば小さく,しかし2つの氏族間の軍事力バランスを変えるには十分であったという条件に基づいていた.ポデスタが一方の氏族と結託しないのは,事後的な結託の報酬に氏族がコミットできないためである.
 第3章で論じられているように,マグリブ貿易商の代理人関係は多者間の懲罰戦略に基づく制度によって統治された.これに対してジェノヴァの貿易商は,同じく遠隔地で代理人を雇用しながら,多者間の懲罰戦略を用いず,貿易商本人との取引履歴のみに基づいて代理人との雇用を決定した.第9章は,このような雇用の仕方,すなわち個人主義的戦略は,マグリブ貿易商がプレイしたのと同じゲームにおける異なる均衡であることを示している.他のジェノヴァ貿易商が個人主義的戦略をとることが期待される場合,過去に他の貿易商を騙したことがあるかどうかは代理人の行動に影響を与えず,したがって貿易商は代理人の過去における他の代理人との取引履歴を考慮しないことになる.すなわち,マグリブ貿易商とジェノヴァ貿易商におけるゲームの均衡ないし制度の相違は,他の貿易商の行動に関して貿易商が持つ期待,すなわち「文化に根ざした予想」(cultural belief)に基づいている.個人主義的戦略は, 騙した代理人に対する懲罰が弱く,それだけでは代理人関係を支えることができない.著者は,個人主義的社会,すなわちヨーロッパでは,それを補完する仕組みとして法制度が発達したと論じている.
 近代的な法制度に基づく取引統治への発展途上において,12世紀~14世紀のヨーロッパで「共同体責任制」と呼ばれる制度が普及した.第10章はこの共同体責任制を対象としている.その前提となるのはコミューンとよばれる地域的な組織である.コミューンは内部の人々が相互に親密である点で共同体と共通し,領域内で強制力を独占している点で国家と共通するという中間的な性格を持つとされている.各コミューンには裁判所があって,コミューンに属する商人が他のコミューンの商人から債務不履行を受けた場合,自のコミューンの裁判所に訴えることができた.貸し手側の裁判所は一定の費用をかけて訴えの妥当性を検証し,立証された場合,借り手商人が属するコミューンの商人が領域内に持っている財を差し押さえ,そのうえで借り手側コミューンの裁判所に補償を要求した.要求を受けた借り手側コミューンの裁判所は一定の費用をかけて要求を検証し,それが立証された場合,借り手商人から罰金を取り立て,その範囲内の金額を貸し手側コミューンの裁判所に支払った.支払いを受けた貸し手側裁判所は,貸し手商人に補償し,差し押さえを解除した.このような貸し手と両裁判所の行動は,コミューン裁判所の利得がコミューン・メンバーの利得の割引現在価値の和であるという仮定の下で,コミューン間の将来の易から得られる利得が十分大きく,裁判所による立証費用が十分小さい場合には,ゲームの均衡となり,その下で貿易が行われる.この制度の下での易は,特定の取引相手との将来の交易から得られる利益に対する期待,その相手の過去の行動に関する知識,その相手の不正を将来の取引相手に通報する能力に依存しないという意味で,個人的関係に依存しない(impersonal)取引となっている.著者は,共同体責任制を近代の市場経済を特徴づける個人的関係に依存しない取引への経過点であると考えている.
 

本書の概要(2):制度変化の分析枠組み

 
 以上,ゲームの均衡という性質に焦点を当てて内容を紹介した5つの章と並んで,本書は,序論と結論を含めて,方法論を提示した7つの章(1,2,3,5,6,11,12章)を含んでいる.注目されるのは,それらの章において,これまでグライフ自身が提起してきた制度概念と制度分析の枠組みをさらに拡張する試みがなされている点である.
 第2章で,制度は「(社会的)行動に一定の規則性を与えるルール・予想・規範・組織のシステムである」と定義されている(p.27).この制度の捉え方は,ゲームの「均衡」(Greif 1993,1997)あるいは「均衡行動を動機づける予想の共有」(Greif 1994; Aoki 2001)といった,これまで制度研究において提起されてきた制度概念と明確に区別されている.
 従来の制度概念が不十分であるとされる理由は,それによっては制度の時間を通じた変化を適切に分析することができないことにある.制度がゲームの均衡であるとすれば,それは均衡の定義によって内生的に変化することはなく,制度変化は,外生的に与えられるゲームの構造の変化によってもっぱら説明されることになる.「内生的な制度変化を分析することは,制度を均衡と見なす考え方とは相容れない」(p.7)のである.このような考えに基づいて,本書では次のような方法論的課題が設定される.すなわち, 均衡としての制度という制度概念が導入した,社会における行動の規則性の背後にある動機の分析という視点を維持しながら,制度の存続,内生的制度変化,制度変化における過去の制度の影響を統一的に分析できる枠組みを構築することである.
 上記の制度の定義の中にある,ルール・予想・規範・組織の4つをグライフは制度的要素(institutional element)と呼び,それぞれが次のような役割を果たすと考えている.社会的に明確化され流布されたルールは,人々の間の認識の共有をもたらし,人々に情報を提供し,その行動を調整し,道徳的に適切で社会的に許容される行動を指示する.予想と規範は人々にルールに従う動機を与える.そして組織は,ルールを形成・流布し,予想と規範を持続させ,実現可能な予想の範囲に影響を与える.本書においてグライフは,これら4つの制度的要素によって,複数あるゲームの均衡の中から特定のものが選ばれると考えている.その意味では本書の制度概念も,事実上,ゲームの均衡としての性質を持っているといえる.
 このことは,上記の内生的制度変化に関する難問を別に解決する必要があることを意味する.そのためにグライフが本書で導入したのが,「準パラメータ」(quasi-parameter)と「制度強化」(institutional reinforcement)・「制度弱体化」(institutional undermining)という概念である.準パラメータというのは,ゲームの結果の積み重ねによって長期的には内生的に変わっていく変数であるが,短期的には不変で,パラメータと見なすことができるような値を指している(pp.140-1).そして制度が準パラメータに引き起こす長期的な変化によって,その制度が均衡(自己実現的)になるパラメータの範囲が拡大することを制度強化といい,逆に準パラメータの長期的変化によって制度が均衡になるパラメータの範囲を縮小することを制度弱体化という.そして弱体化が進行すると最終的に制度は均衡ではなくなってしまう.
 制度弱体化によって既存の制度が時間の経過の中で解体することが説明できたとして,新しい制度への移行はどのように説明されるであろうか.この問題は第7章で主に取り組まれている.既存の制度が自己実現的でなくなった時,人々は新しい制度の選択に直面する.本書で強調されているのは,制度の選択において,過去の制度を構成していた制度的要素,すなわちルール,予想,規範,組織が初期条件を与えるという点である.これらの要素は,すでにそれが構成していた制度が均衡でなくなった後も,多くの場合,存続しており,制度の選択に影響を与え,また新しい制度に組み込まれる.そのような点で,過去の制度は制度変化に影響を与えると考えられているのである.制度を制度的要素に分解して定義したことの意味は,このような制度変化の理解を基礎づけることにあるといえよう.
 

 参考文献

 
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青木昌彦(2001)『比較制度分析に向けて』NTT 出版.